“Possibilism(ポシビリズム)” ~AI時代のリテール・コマースの新たな可能性は、米国ではなくAPACから(前編)

毎年1月に行われる全米小売業協会(NRF)主催の世界最大の流通小売分野における大型コンベンション「NRF Retail's Big Show」。第2回目となるAPAC 版が、6月3日から5日にシンガポールはマリーナベイ・サンズホテルにて開催されました。リテール・コマースの最先端トレンドは、今後どのようにシフトしていくのか?コロナ前の2020年から時系列で定点観測してきた、電通グループにおける流通小売業のBX/CX支援を行う木村仁昭がお送りします。

はじめに

昨年以上の規模感で大盛況に終わった、NRF APAC 2025(以下、APAC2025)。そのオープニングで強調されていたのは、リテール・コマース領域における APAC エリアの「ポシビリティ」や「ポテンシャル」でした。 米国では超大手グローバルブランドの動向に注目が集まりがちですが、“デジタル・データ・テクノロジー”という3点セットの力によって、

①世界市場にまだ認知されていないAPACのユニークでバラエティに富んだリテーラーたちなりの、DXやブランディングの在り方がアンチテーゼとして打ち出されたこと。

②その原動力となったのが、“デジタル・データ・テクノロジー”の3点セットにデフォルトで加わりつつある、AIという第4の力であること。

③逆説的ではありますが、これらの環境が整うことによって、「店員と顧客というミューチュアルなつながり」「店舗というフィジカルな空間」「その場限りでのリアルな体験」という、コロナ前は当たり前のように消費者が享受してきた顧客体験(CX)の価値が、相対的にグッと高まったこと。

これらのAPACならではの「リテール・コマース・アジェンダ」は、まさにAPACの多様な歴史・文化・社会・民族・宗教……観点に根差したところが大きいと言えるのではないでしょうか?もちろん、そこには日本も含まれます。今回のレポートでは、上記論点に沿って、

前編: NRF APAC 2025振り返り~AI時代のリテールコマースの可能性
後編: APAC域内の店舗視察~台湾/シンガポール/マレーシア

の2部構成で、内容詳細を皆さまにお届けします。

スピーチから見えてくるリテール・コマースの可能性

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APAC 2025 Day1(オープニング):KPMG社 イサベル・アレン氏

初日のオープニング講演で提起されたこの「ポシビリズム」という、聞き慣れない言葉は、古くはフランスの政治活動に端を発し、その後米国の社会経済学者:アルバート・ O・ハーシュマン(Albert O. Hirschman)により提唱された、「まだ見ぬ新たな社会へ、漸進的に向き合う」スタンスを指すそうです。もっと端的にお伝えすると、特に大きなパラダイムシフトが起こるタイミングや社会においては、官や経営のトップダウンよりも、民や現場からのボトムアップが引き出す未来への可能性を信じる方がベター、という考え方です。筆者は「AI浸透の現代」に、それらを重ねて見ています。

また、APAC 2025のテーマは、「Retail Unlimited」。オープニング講演では、APAC市場そのものが持つポテンシャルとして以下のようなデータを挙げていました。

●APACは35億人の人口で、世界人口の55%を占める。
●2030年には、世界の一般的な消費者層の2/3がこの地域に集中する見込み。
●東南アジアにおいては、EC市場が過去5年間、年平均20%以上で成長。
●韓国では、世界で初めてEC化率が50%超え。

さらに、スーパーアプリ、ライブコマース、SNS連動型購買など、APAC発のリテールトレンドが世界の市場や消費者行動に強い影響を与える存在となりつつあることが示されたことも、見逃せません。ここにAIがどのような影響を及ぼしていくのでしょうか?

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APAC 2025 Day1(オープニング):KPMG 社 イサベル・アレン氏

講演の中では、「今までにないほど人も物もサービスも、ネットやECを通じて、グローバルにつながっているにもかかわらず、ナショナリズムや保護貿易主義がまん延している世界」「消費者の刹那的な欲求期待に応える利便性は、エコノミカルにもサステナブルにもならないという社会構造」「リテーラーは従来以上にデータ集積を進めているにもかかわらず、消費者行動におけるキーとなる情報にたどり着けていない現状」「人の手を介した仕事が減っている一方で、必要な人材はより得難くなっている労働市場」……など、10領域に関する各種 の“paradox” を挙げつつ、それらの矛盾を解決していくのがAI 、特に今回会場内でよく聞かれた、高度な自律性と意思決定能力を持つAgentic AIの可能性である、と説明されていたことが印象的でした。

1月のNRFでNVIDIAの幹部が触れていた、ロレアル(L'Oréal)のデジタルマーケティングにおける多パターンバナー広告の自動生成、Walmartにおける在庫管理とサプライチェーンの可視化、ロウズ(Lowe's)におけるデジタルツイン活用の従業員向けOJTプログラムなどのAI活用実例も含めて、2025年までのリテール・コマース環境におけるテクノロジーの変革×EC環境の変化×チャネル構造の変遷を年表形式にまとめてみたのが以下です。そこからたった半年余りが経過しただけですが、この進化のスピードもまた速く、「I am AI」から、「Agentic AI is everywhere」とも言える状況が昨今は到来している、と言っても過言ではないでしょう。

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リテール・コマース環境におけるトランスフォーメーション(20~21世紀)

3日間の会期中、各日ともにAPACのリテールDXやBXをけん引する、強いリーダーシップを持った経営層が登壇しましたが、そこで印象に残ったセッションを以下に紹介したいと思います。

Day1:LOTTE
LOTTEは、日本だとお菓子メーカーとしてなじみの方がある企業かもしれませんが、グローバルでは、韓国発・APACの先進的リテーラーとしてその名をはせています。APAC 2024の前回レポートでも取り上げてきましたが、彼らのリテールDXに対するアプローチはOcadoを活用した都市型先進的なネットスーパーにとどまりません。傘下に抱える幅ある業態の中でも、「旅マエ・ナカ・アト」という購買モーメントの高まる特別な瞬間を捉えるDuty Free ShopはCX観点でも着目に値すると言えます。

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Day1:韓国・LOTTE×シンガポール・FairPrice Group、Opening Keynote CEO対談

Day2:Royal Selangor
ロイヤルセランゴール(Royal Selangor)は、1885年創業で今年140周年を迎えるマレーシア王室御用達のピューター(錫(スズ)工芸品)メーカーです。越境EC需要の高まりの中で、こちらも前回お伝えしたタイのシルクブランド:Jim Thompsonと同様、旅行や出張の土産品というグローバル・ブランディングからの脱却を志向。既存のブランド価値を守りながらも、コンテンツ IPを活用した商品化を通じて拠点であるマレーシアでのローカル・マーケティングに注力していた点が印象的でした。

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マレーシア・クアラルンプールにある、Royal Selangorの旗艦店

Day3:GOLDEN  ABC
GOLDEN ABCは、1986年に創業のフィリピン・ファッション小売業界をけん引する大手アパレル企業として、配下にPenshoppe/Oxygen/MEMO ……といったオリジナルブランドを持ちます。家族経営発ながら、「アジアで最も尊敬されるファッションブランドになる」というビジョンを掲げ、AI やその他の新興テクノロジーを取り込む進取の気性に富む企業です。しかし、Alice Liu CEOは最後にこう述べていました。「Growth isn't just about entering new markets, it's about staying rooted in who we are even  as we continue to evolve (企業にとってのグロースは単に新領域へ参入するということだけでなく、“進化し続けながら”自社にとっての原点にこだわり続けることです)」この言葉は国や業種関係なく、グロースを目指すあらゆる企業にとって、重要な言葉かもしれません。

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Day3:フィリピンのアパレルコングロマリット、GOLDEN ABCのOpening PV

いずれの企業にも言えることは、いい意味での創業家リーダーシップが健全に発揮された上で、4点セット(データ・デジタル・テクノロジー、そして AI )を活用しながらもそれに依存することなく、各社の原点(それぞれの国固有の文化、社会、民族、宗教……)とそこへのリスペクトという軸足をブラさずに、ビジネス・ピボットしている点ではないでしょうか?  

参考:Story, Memory, History ~ Brand, Store, People, ポスト・コロナとその先にあるもの 


注目のブース展示

会場内で目立ったブース展示には、冒頭お伝えしたようなAI時代の新たなCX追求ニーズを反映してか、インストア向けのハードソリューションやテクノロジーが強調されていたように感じられました。

VUSION (電子棚札)
imageAI を活用した予測機能を持つ機能進化した電子棚札により、売り上げ最大化と粗利率向上を図り、中韓勢のコスト競争と差別化を図っている。

Amazon (3D AI ホログラフィックディスプレー)  
imageアパレルECにおけるImmersive Commerceを店舗に逆応用。VR/AR/3DといったSpatial Computing技術により、購入前試着にスピードとスムーズさを提供することで顧客⇆店員のやり取りを円滑にし、ペインポイントを解消する。

SONY (エッジコンピューティング処理搭載のAIカメラ)
imageイメージング&センシングを得意とするソニーセミコンダクタソリューションズと、マイクロソフトのクラウドを活用した共創ソリューションは、AI写真判定により顧客像を捕捉、in-store顧客動態データを基に、店内導線改善やROIを高めるゾーニングなどの示唆出しも。

FairPrice (レジカート — Store of Tomorrow —)
imageAppの二次元コードでアンロックし、内蔵重量センサーとスキャナーでカート内商品認識が可能。不正登録はライトセンサー警告が発動する。タッチパネル決済が可能で購入情報はアプリに自動反映される。

電通グループの挑戦

今回は電通グループとしても2回目の海外コンベンションの出展となりましたが、昨年同様に電通 APACや国内電通グループ各社と連携しながら、ブースデザインはTag社が再び取り仕切り、グループ一体となって推進したソリューション展示となりました。

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昨年同様大盛況となったdentsuブースでは、AI判定モデル実装の購買証明ソリューション「SCAN DA CAN 」 がアジア初上陸

電通グループのブースコンセプトは、昨年の「Infite Commerce」から「Commerce×Culture」へと進化しました。APACとくくられたマーケット定義は最近でこその言葉ですが、それだけでは語り切れない文化的な多様性こそがAPACのポシビリティであり、ポスト・コロナの・AI時代におけるリテール・コマースのグローバルスタンダートとなりえるとするならば、会場の中でわれわれがその一翼を少しは担えたのかもしれません。

ポシビリティから、ポテンシャルへ。後編では、今回赴いたシンガポール・マレーシアに昨年11月の台湾も併せて、グローバルな消費社会におけるAPACという巨大なマーケットが持つ多様性のポテンシャルを、リテール店舗視察・フィールドワークの観点から、推し量ってみたいと思います。

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GovTech東京が描く行政AI活用の未来─全国の自治体で使える“デジタル公共財”

●この記事のポイント
・東京都は「東京都AI戦略」を公表し、行政サービスと業務効率を高めるための全庁的AI活用を打ち出した。その中核となるのが、GovTech東京とデジタルサービス局が整備するAIプラットフォームである。
・Difyはクラウド版とセルフホステッド版の2つを持ち、職員がノーコードで業務アプリを構築・共有できる仕組みを備える。多様なAIモデルを組み合わせて「短い鎖」で業務を分担し、安全性と速度を両立させる設計が特徴。
・住民サービスの入口や編成の工夫が各地で再現可能となり、全国の自治体で導入格差を埋める効果が期待される。

 テクノロジーは机上の計画ではなく、現場の摩擦の中で磨かれる。GovTech東京がTokyo Innovation Baseで2025年8月19日に開催した「ガブテックカンファレンス vol.1」は、生成AIを”話題”ではなく行政の品質を上げるための”道具”として、実システムに実装する確かな一歩を示した。

 東京都は2025年7月25日に「東京都AI戦略」を正式に公表し、都民サービスの質と業務生産性の双方を高めるために、AIの全庁横断活用を明確化した。その方針の下で、行政DXを推進する組織であるGovTech東京が、AI導入のためのプラットフォームと運用フレームワークを示し、登壇した松尾豊(東京大学大学院工学系研究科教授、東京都AI戦略会議座長)、大山訓弘(日本マイクロソフト業務執行役員)、松本勇気(LayerX代表取締役CTO)の各氏が”実務で回るAI”の条件をそれぞれの視点から具体化した。政策・技術・運用を横断する議論に、現場起点の温度が通った。

●目次

GovTech東京が目指す自治体AI基盤──共通道具としてのプラットフォーム

 今回の中核は、GovTech東京と東京都デジタルサービス局が連携して整備する生成AIプラットフォームである。プラットフォームと表記しているのは比喩的な表現ではない。職員が専門的コーディングに依存せず、ノーコードを含む環境で業務アプリを自ら組み立て、庁内外で共有し、他団体が再利用できることを前提に設計された”現場実装のための道具”だ。

 Difyの提供形態はクラウド版とセルフホステッド版の2つに分かれる。前者のパターンのDify Cloudはクラウドで提供される運用一体型、後者のパターンのDify Communityはソースコードが公開されており、自前サーバーに導入して使える形、同じく自前運用前提のDify Enterpriseは組織要件に合わせた拡張・統合を見込むエンタープライズ版である。すなわち、セルフホステッド版は”自庁で動かす”選択肢であり、プラットフォームとしては Dify Enterprise を採用している。

 アーキテクチャの骨格は明快だ。既存の文書や台帳を知識として取り込み回答精度を高めるRAG(Retrieval-Augmented Generation:検索拡張生成)、業務横断のデータ取扱いを支えるガバナンス、そしてテナントごとの厳密な分離と統治を前提にする。重要なのは”多機能化”より”標準化”の置き所である。プロンプトと評価の手続き、モデル更新時の回帰確認、監査ログの保全を最初から運用設計に織り込み、安全と速度を両立させた状態で”回し始める”ことを可能にする。

 Difyはまた、複数のAIモデルを編成して使う前提で設計され、要約・照会・根拠提示・文書生成といった”短い鎖”に仕事を分解し、場面ごとに最適な能力をつなぎ合わせる。Microsoft Azure OpenAI ServiceのGPT-4o、GoogleのVertex AIによるGeminiやClaude、ローカルLLMなど、多様なAIモデルを統合的に活用できる構成となっている。

2026年度の本格稼働へ──現場で使い、使いながら磨く

 生成AIプラットフォームは完成されたプラットフォームとして配布される”大規模一括導入”型ではない。GovTech東京はまず自分たちの現場で自ら試験運用(いわゆる“ドッグフーディング”)し、都庁各局・区市町村での実証を並走させるスタイルで開発が進められている。

 文書の校正・要約、議事録作成、ヘルプデスク支援といった、短期で効果が見えやすい領域から成果を積み上げ、作りながら使い、使いながら直す。この進め方は、リスク分散と習熟の同時実現を可能にし、2026年度の本格稼働を現実味ある工程に置き直す。

 2025年4月に新設されたGovTech東京のAIイノベーション室が、この取り組みの中核を担う。「AIと技術イノベーションを泥臭く現場に実装」「職員一人ひとりの手取り時間を増やす」「テクノロジーをフル活用し、これまでできなかったことをできるに変える」という明確なミッションの下、既に37団体の区市町村に対して生成AI活用支援を展開している。

 視野は都域に閉じない。Difyを使った生成AIアプリの開発は”デジタル公共財”の発想を背骨に置き、Dify Communityを軸に、東京都外の自治体でも自庁環境で活用できる道を開く。同じプラットフォームを共有すれば、初期コストを抑えつつ、地域ごとの制度・表現・業務導線に合わせた上物の作り替えに集中できる。利用者が増えるほどテンプレートやベストプラクティスが洗練され、改修の速度が上がる”正の循環”が生まれる。

町田市が示した「入口」と「編成」──Dify時代の先行事例

 共通の道具が整えば、各地の”入口の発明”や”編成の工夫”は知見として流通しやすくなる。町田市のポータル「まちドア」は、三次元アバターと生成AIを組み合わせたAIナビゲーターを導入し、制度名や部署名を知らなくても自然な対話で目的の手続きに到達できる”入口”を実装した。愛称は市民投票で決まった「マチネ」と「マーチ」。窓口の”人柄”をUIに移植する発想が、探索コストを下げ、初手の迷いを減らす。

 2025年4月のリニューアルでは生成AIをGPT-4oに更新し、案内の対象を市のデジタルサービスにとどめず公式サイト群へ広げた。

 裏側の作りは”万能主義”ではない。要約・照会・根拠提示・文書生成の短い鎖をそれぞれ得意なエージェントに割り当て、全体を編成で底上げする。住民向けと職員向けで入口は異なっても、最終的にはDifyでリクエストを受け、最適なモデルや機能群へ振り分けて応答する構えに進化していく。強い単一モデルに賭けず、編成で勝つ設計は、Difyが掲げるプラットフォーム思想と合致している。ここで強調しておきたいのは、町田が”主役”ではなく、道具が正しく設計されれば各地で再現可能であることを示す先行例だという点である。

「東京の事例」を全国へ──共通道具と作法で導入格差を埋める

 全国には1700を超える自治体がある。人手不足が深まるなか、生成AIへの関心は高いが、実装の速度と人材の偏在が大きな壁になっている。現場でAIを回し続けるには、誰でも使える共通の道具と、作法(評価・監査・更新・運用の折り目)が不可欠だ。Dify Cloud/Community/Enterpriseという三つの選択肢は、財政・人員・情報政策の事情に応じた”入り口”を提供し、導入のハードルを下げる。

 評価の言語も揃えたい。問い合わせの初期応答時間、一次解決率、申請の離脱率、案件あたりの処理時間──通貨を「時間」に置き換えて語ることで、技術の議論は生活の議論に翻訳される。手続きが簡素化され、「都民の手取り時間」が確実に増えるという結果が積み上がれば、その成功は地方でのデジタル導入の推進力になる。

 この取り組みを支える人材基盤も着実に拡充されている。CTO井原正博氏の下、現在約260人体制(東京都職員派遣と民間採用が半々)で運営されるGovTech東京は、「世界最強の行政DX技術チーム」構築を目標に掲げる。

10年の見取り図──定数から「編成としての処理能力」へ

 5年先、10年先を穏やかに想像する。市民は制度名を知らずとも自然な対話で目的のサービスに導かれ、必要書類はバックグラウンドで生成される。行政側が必要とする情報や根拠条文も、AIを通じて即時に提示される。Difyはリクエストと応答の流れを常時監視し、細かく刻まれたタスクを特化エージェントへ分配する。職員は例外判断や合意形成に集中し、残業は確実に減る。その成功はテンプレートとして外に開かれ、他自治体は上物の調整だけで追随できる世界が見えてくる。

 なお、国の「ガバメントAI」構想も併走する。2025年6月13日に閣議決定された「デジタル社会の実現に向けた重点計画」に盛り込まれ、2025年度中に一部実用化、2026年度から本格提供が開始される予定だ。両者は競合ではなく、階層の異なる基盤として相互補完的に重層化する可能性が高い。国の基盤の上で、東京都発のDifyや、Dify Communityに対応したOSS群が連携・運用される絵柄だ。町田市のような先行事例がDifyと噛み合い、成果が積み上がるほど、AIの行政への浸透は加速する。

 結局のところ、行政へのAI導入の鍵は”道具を共通化し、活用のための作法を揃え、現場でどのように回す(使ってもらうか)”に尽きる。生成AIプラットフォームという共通の道具が成熟し、全国に広がれば、その形を最短で形成できるだろう。

(取材・文=本田雅一/ITジャーナリスト)

「薬が効かない痛み」をVRで軽減──医療現場が注目する新しい治療法

●この記事のポイント
・VR技術を活用した「セラピアVR」により、手術中の鎮静剤を50~75%軽減することに成功
・薬物療法だけでは解決困難な慢性疼痛に対し、心理療法とVRを組み合わせた新たなアプローチを開発

 超高齢化社会において慢性疼痛患者の増加が社会問題となる中、従来の薬物療法では解決困難な痛みや不安に対し、VR技術を活用した革新的な治療法が注目を集めている。福岡県に拠点を置く株式会社xCuraが開発する「セラピアVR」は、医療現場での実証実験において鎮静剤の大幅な削減効果を実証し、新たな治療の可能性を示している。同社代表取締役の新嶋祐一朗氏に、VRによる痛み軽減の仕組みと将来的な展望について話を伺った。

●目次

「薬でも治らなかった痛みがVRで改善」実証データが示す効果

 xCuraが開発する「セラピアVR」は、VR映像を通じて宇宙や海、森といった自然環境を体験させることで、患者の意識を痛みから逸らすデジタル鎮静技術である。同システムでは、単純な映像視聴にとどまらず、呼吸のタイミングや長さをガイドし、催眠療法の技法をデジタル化している。

「国際医療福祉大学血管外科での研究では、セラピアを使用したすべての患者様の鎮静剤が50%から75%軽減しました」と新嶋氏は説明する。鎮静剤の削減は、呼吸抑制などの副作用リスクを軽減し、医師の心理的負担も軽減している。

 注目すべきは、治療中だけでなく治療後の効果持続性である。「薬でも治らなかった痛みがVRを2週間持って帰って装着したところ、腰痛や不眠症が治癒した」との報告もあり、従来の治療法では困難だった症例での改善例が確認されている。

 脳波測定による科学的検証では、VR装着時に瞑想の熟練者と同様の脳波パターンを示すことが判明した。「瞑想の初心者でもVRを装着して呼吸をすることで、瞑想の熟練者と同じような脳波が出ており、こうした脳波が痛みの軽減に効果的な可能性がある」と新嶋氏は分析している。

慢性疼痛の根本的解決に向けた心理療法とVRの融合

 日本における慢性疼痛患者は超高齢化に伴い増加の一途をたどっている。慢性疼痛は組織損傷による痛み、神経の圧迫や損傷による痛み、そしてストレスによって感じる痛覚変調性疼痛の3種類に分類される。xCuraが特に注力するのは、3番目の痛覚変調性疼痛である。

「ストレスで痛みを感じる慢性疼痛では、脳の中で痛いという回路ができあがっています。体は痛くないのに脳が痛いと感じるため、リラックスしてもらうことと、痛くないという脳の回路を作る必要があります」と新嶋氏は説明する。

 従来の治療アプローチでは、運動療法、心理療法、手術、薬物療法を組み合わせるものの、77%の患者が治療に満足していない現状がある。その背景には、日本独特の文化的要因も影響している。「痛いとカウンセリングという部分がなく、痛いと注射を打ちに行ったり薬をもらったりという文化で、自分の脳の認知を変えるという文化がない」と新嶋氏は指摘する。

 この課題に対し、同社では自律訓練法や漸進的筋弛緩法といった心理技法をVRと組み合わせることで、カウンセラー不要で自宅でも気軽に心理療法を受けられるシステムを構築した。催眠療法士でもある新嶋氏の専門性を活かし、催眠の技法をVR化させたデジタルセラピーを提供している。

医療現場での信頼獲得と海外展開への道筋

 革新的技術の医療現場への導入には、慎重な医療業界での信頼獲得が不可欠である。「最初は怪しいと思われていましたし、VRでどこまでコントロールできるかを懐疑的に見ている先生も多かった」と新嶋氏は振り返る。

 信頼構築のプロセスでは、段階的なアプローチを採用した。「最初は病院ではなくクリニックで、大きい病院ではなく歯科クリニックなどで実施し、患者さんの主観的なレビューをいただき、そのデータを持って大病院に行っていました」と戦略的な展開を説明する。

 現在は日本国内での30件以上の医療機関、100名以上の患者での検証実績を有し、医師からも高い評価を得ている。医師の声として「麻酔量が減ることによって呼吸抑制や血圧変動も少ないので安全に手術が行えている」「患者さんは皆さん次回も希望するし、お金を払う価値は十分ある」といった評価が寄せられている。

 海外展開についても積極的に検討を進めており、特にフィンランドとの関係が深い。「フィンランドと昨年からやり取りが多く、3回ほど現地に行っています。日本よりもどちらかというと海外の方が早いのではないか」と海外市場への期待を示している。

 事業モデルとしては、VRゴーグルとコンテンツを一体化した月額5.5万円の契約形態を採用し、医療機関での治療中使用から患者の自宅持ち帰り使用まで幅広く対応している。保険適用についても「マストだと思っている」としながらも、点数設定の不透明性から慎重な検討を続けている。

 将来的なビジョンについて新嶋氏は「薬だけでは解決できない痛みをテクノロジーで解決したい。痛みがあることで死にたくなったり鬱になったりしないよう、テクノロジーを通して生きやすい社会にしたい」と語る。超高齢化社会における医療課題の解決に向け、VR技術を活用した新たな治療法の確立と普及に向けた取り組みが続いている。

(文=UNICORN JOURNAL編集部)

なぜ監査はオルツの不正を見抜けなかったのか…「監査の死角」をAIでなくせ

●この記事のポイント
・AI議事録ソフトを展開していたオルツが売上の大半を架空計上していたことが発覚し、2025年8月末に上場廃止となった。
・専門家は、監査は書類の突合だけでなくシステム稼働や現場検証に踏み込むべきだったと指摘。加えてAIを用いた「全件×連関×言語」による網羅的検証は、不正発見力を大幅に高める可能性があると語る。
・今後はAIが全データの自動分析を担い、人間が現場調査や経営者との対話で本質を見抜く「AI+人間」の二層体制が監査の進化に不可欠とされ、企業ガバナンスの再設計が問われている。

 2025年夏、議事録ソフト「AI GIJIROKU」等を展開していたAI企業オルツは、売上の過大計上などを理由に8月31日付で上場廃止となった。第三者委員会の調査では、販売パートナー向けライセンスに実態を伴わない売上計上が長期にわたって行われ、売上高の大半(期によって約8~9割)が過大計上であったと指摘された。この事件は、企業ガバナンスと会計監査の機能不全を露呈させると同時に、AI活用による“全件監査”の現実解を問いかけている。

 本稿では、公認会計士/公認不正検査士/公認システム監査人である姥貝賢次氏(ジュリオ株式会社代表取締役)に、事件の本質と「AI+人間」による監査再設計を聞いた。

●目次

不正の手口ーー「形式」を完璧に繕った罠

 姥貝氏はまず、不正の手口を簡潔に振り返る。

「書類だけ見れば整っているが、実態がない——これは古典的な不正手口です。広告代理店や販売パートナーを介した“循環取引”のような構造により、売上を膨らませて見せる。SaaSやスタートアップ特有の問題ではなく、歴史上繰り返し起きてきた典型例だといえます」

 第三者委員会報告書は、本件スキームの形成経緯から資金移動の全体像、そして「架空売上」と評価すべき根拠まで段階的に解明している。重要なのは、不正が「資料と手続が“一見”整う」よう巧妙に設計されていた点だ。帳簿・請求・支払・回収が相互に整合しても、プロダクトの稼働実態やアカウントの発行・利用ログが伴わなければ、取引の経済的実態は成立しない。この基本原則が見過ごされたのだ。

なぜ監査は機能しなかったのかーー本質を見失った『リスク・アプローチ』の形骸化

 なぜ会計監査の専門家たちは、この不正を止められなかったのか。現在の主流である『リスク・アプローチ』(企業の事業内容や環境を理解し、重要な虚偽表示リスクに応じて監査資源を配分する手法)が、形式的な確認作業に終始し、本質的なリスクを見落とした可能性が高いと姥貝氏は指摘する。

「エンジニアの隣に座って、管理画面を直接見れば、アカウント発行や利用状況の実在は確かめられたかもしれない。現場の多くは不正に関与していないはずで、『これ、本当に稼働していますか?』という現地・現物の掘り下げは有効です。

 オルツ社のようなソフトウェア企業の最重要リスクは、『売上に対応するサービスが本当に稼働しているか』という一点に尽きます。ならば、監査の最優先課題は、契約書や請求書といった書類の確認だけではなく、システムの稼働ログや顧客や現場への実態確認といった事業の実態(本質)を直接検証することだったはずです」(姥貝氏)

 しかし、それが実行されることはなかった。監査は、形式を整えた不正の罠にはまり、その役割を果たせなかったのだ。

AIは不正を見抜けるのか——“全件×連関×言語”で実現する監査の進化

 形式的な監査の限界に対し、AIはどのような解決策をもたらすのか。

「AIは疲れません。だから全件・全データに対し、突合・系列分析・言語解析をかけ続けられる。監査の“見落としやすい領域”を埋める強力な補完策として、大きな期待があります」

 AIは、監査の「あるべき姿」を実現するためのゲームチェンジャーとなり得る。具体的には、以下の2つの側面で監査を進化させる。

「網羅性」による規律: AIは全件検査を機械的に実行する。これにより、「これくらいは大丈夫だろう」という人間の判断の甘さを排除し、サンプリング(試査)の限界を克服する。

「本質」の自動検証: AIは会計データとシステムの稼働ログ、外部情報などを自動的に突合する。人間が怠りがちだった、あるいは工数や慣習の制約から避けていたかもしれない『経済的実態』の検証を、最優先の必須タスクとしてドライに実行する。

未来の監査——「AI+人間」の二層構造へ

 姥貝氏は、AI時代の監査の在り方を次のように展望する。

「AIが書類・ログの突合といった網羅的な検証を担い、人は現場と経営と対話する。役割を明確に分けるほど効率と品質は上がります。AIが異常を検知し、人が背景を深掘りする。発見確率は段違いになるはずです」

 AIが監査の土台を固め、人間はその上で専門的懐疑心と高度な判断力を発揮する。この役割分担こそが、監査を進化させる鍵となる。

 最後に、姥貝氏は経営者にこう呼びかける。

「資本主義の仕組みには“隙”があり、監査は万能ではありません。だからこそ、AIで“全件”を見渡し、人が現場で確かめる体制が必要です。企業は信頼できるガバナンスを築き、AIという新しい道具で不正の根絶に踏み出すべきです」

(文=Business Journal編集部、協力=姥貝賢次/公認会計士・公認不正検査士・公認システム監査人、ジュリオ株式会社代表取締役)

【参加者募集】朝日地球会議2025「あなたと考える 激動の世界と地域の未来」10月24日開幕

朝日新聞社は10月24日(金)に開幕する国際フォーラム「朝日地球会議2025」の参加申し込みを受け付けている。10回目を迎える今年のメインテーマは「あなたと考える 激動の世界と地域の未来」。

10月24日(金)~25日(土)に東京ミッドタウン八重洲カンファレンス(東京駅地下直結)で開くリアル会場セッション(11月後半から配信予定)と10月27日(月)~31日(金)に順次配信が始まるオンラインセッションがある。オンデマンド視聴期限は2026年1月15日(木)。参加・視聴無料。
 

■「朝日地球会議2025」公式サイト:https://t.asahi.com/wpdq

朝日地球会議2025

サブテーマは「持続可能性」「イノベーション」「国際関係・平和」「多様性」。全体で20を超えるセッションの中から、10月24~25日に東京ミッドタウン八重洲カンファレンス(4階メイン会場)で開かれる各テーマの主なセッションを紹介する。(敬称略)

【10月24日(金)15:45~16:45】(イノベーション)
J-POPとアニメの未来~世界へ 岐路に立つコンテンツ産業~
中川悠介(アソビシステム社長)、岡本美津子(東京芸術大学大学院教授)、コーディネーター:岩沢志気(朝日新聞経済部記者)

2025年、J-POPの世界進出が注目されています。「ワンピース」「鬼滅の刃」など海外での日本のイメージを象徴するアニメなどを含めた日本のコンテンツ産業が世界でより輝く道筋を考えます。

【10月24日(金)17:00~18:00】(持続可能性)
「8がけ社会」の処方箋 「つながる」と「分け合う」でひらく未来
宇野重規(東京大学教授)、石山アンジュ(シェアリングエコノミー協会代表理事)、田中輝美(島根県立大学准教授)、コーディネーター:石松恒(朝日新聞ネットワーク報道本部次長)

働き手の中心となる世代が現在より2割減る「8がけ社会」を迎える2040年。人と人、地方と都市をつなぎ、限られた労働力やサービスを分け合う発想から、困難な未来をきりひらく処方箋を考えます。
※終了後に5階イベントスペースでワークショップあり

【10月24日(金)19:00~20:00】(多様性)
斎藤幸平の目に映る世界と日本 右傾化、ポピュリズムと脱成長
斎藤幸平(東京大学大学院准教授)、コーディネーター:真鍋弘樹(朝日新聞フォーラム編集長)

各国で広がる右傾化と反移民のポピュリズム。終わりの見えない戦争。ドイツから帰国した哲学者の斎藤幸平氏が縦横無尽に語ります。欧州での生活を通じて目に映った世界、そして日本の実像とは。

【10月25日(土)14:00~15:00】(持続可能性)
止めたい気候危機 あなたも主役に システムチェンジの起こし方
江守正多(東京大学教授)、三谷優衣子(クライメート・リアリティ・プロジェクト・ジャパン・ブランチ・マネージャー)、藤川まゆみ(上田市民エネルギー理事長)、コーディネーター:香取啓介(朝日新聞編集委員)

地球温暖化が止まりません。国際調査では「政府はもっと強い気候変動対策を」と考える人は5人中4人に上ります。意志を行動につなげ、脱炭素社会を実現するヒントを探ります。※終了後に5階イベントスペースでワークショップあり

【10月25日(土)15:15~17:25】(国際関係・平和)
西洋の終わり――揺らぎゆく権力と価値観
講演=エマニュエル・トッド(フランスの人類学・歴史学者)
パネル討論=エマニュエル・トッド、三牧聖子(同志社大学大学院教授)、コーディネーター:高久潤(朝日新聞GLOBE編集部記者)

冷戦後に覇権を誇った西洋的な権力構造や社会のあり方、そして価値観が根本から変容しつつあります。世界が、そして日本が直面する新しい時代への道筋とは――。同時通訳付きで講演とパネル討論をセットで行います。

【10月25日(土)17:40~19:00】(国際関係・平和)
帝国の幻影:力の時代は再来する
佐橋亮(東京大学教授)、錦田愛子(慶応義塾大学教授)、望月洋嗣(朝日新聞国際報道部次長)、コーディネーター:長野智子(キャスター)

戦後の世界秩序が大きく揺らいでいます。大国が力で自国の利益を追求し、かつての「帝国」をもほうふつとさせる時代の再来に日本はどのように向き合えばいいのでしょうか。アジアや中東の視点も交えて議論します。

その他のプログラムの詳細はやお申し込みは公式サイトをご覧ください。

〈主催〉 朝日新聞社
〈共催〉 テレビ朝日
〈特別協賛〉 旭硝子財団、サントリーホールディングス、明治ホールディングス
〈協力〉 グローバル・コンパクト・ネットワーク・ジャパン、朝日学生新聞社、CNET Japan、ハフポスト日本版、森林文化協会、クライメート・リアリティ・プロジェクト・ジャパン振興財団
〈特別共催〉 国際交流基金
〈後援〉 総務省、外務省、文部科学省、農林水産省、経済産業省(予定)、国土交通省、環境省、東京都、日本物理学会

■お問い合わせ朝日地球会議2025事務局(有限会社フリースタイル内)
E-mail:awf2025@freestyle2004.com

 

生物多様性への取り組みを企業の強みに変える5つの視点

「生物多様性保全に取り組んでいるが、企業の価値につなげられていない」
「長年続けた環境活動の投資効果を問われ、事業とのひもづけを問われている」

日本では2005年の愛知万博前後で生物多様性が社会課題として注目され、世界的に見ても長年にわたって生物多様性に関連する活動を続けている企業が数多くあります。しかし、世界に先駆けて始めた自然保全活動が今、競争優位性を持っているとは限らず、コストカットを求められる中で継続が難しくなることも。そもそもなぜ長年やっているのかを問われても説明がしにくいなど、冒頭にあげたような悩みを持つ企業も多いのが現状です。

また、日本では2027年3月期から、一部の大手企業有価証券報告書でのサステナビリティ開示が義務付けられ、対象企業は順次拡大される予定です。企業は生物多様性保全にどのように取り組み、企業価値をどう示していけばよいのでしょうか。

本記事では、日本の森を盛り上げ、次世代へつなげることを目指す株式会社モリアゲの森林業コンサルタント 長野麻子氏と、電通サステナビリティコンサルティング室の澤井有香氏にインタビュー。企業が取り組む自然保全活動の現状や苦悩、活動を企業の強みにするための方法について話を聞きました。

長野氏と澤井氏
(左から)モリアゲ 長野麻子氏、電通 澤井有香氏。日本の森をモリアゲていく「モリアゲポーズ」をとる二人
<目次>
世界3位の森林率を誇る日本。「生物多様性」と「森」の関係は?

TNFD情報開示だけでなく、行動の質が問われるように

自然保全活動を企業の強みにする5つの視点

成功例の横展開も、地域の独自性と掛け合わせるとオンリーワンの活動になる

先進国で3位の森林率を誇る日本。「生物多様性」と「森」の関係は?

──初めに「生物多様性」と「森」はどう関係しているのか教えてください。

澤井:最初にお伝えしたいのは、生物多様性は“いきもの”の種だけでなく、森や里山といった生態系、遺伝子など地球の自然すべてを含みます。そして、その自然と共生するための活動こそが、生物多様性を考えるうえでの核となります。私たちは自然から多くの恩恵を受けており、生物多様性の保全とは、自然とともに生きる未来をつくる取り組みでもあります。

森林もその一例です。動植物を守るだけでなく、水を蓄える機能によって水資源の保全にもつながります。水はすべての人、多くの産業にとって欠かせない資源であり、水源地を守ることはビジネスの土台となる“共生”の実践だといえます。なお、環境省が認定する自然共生サイトの多くも、森林に関わるものです。

生物多様性とは

長野:日本の国土の約7割は森林で、先進国(OECD加盟国)の中でも日本はフィンランド、スウェーデンに続いて第3位の森林率を誇ります。これだけの人口と経済規模を持ちながら森を維持している国は他にありません。

長野氏

──森林を保全する企業は、どのように見られるのでしょうか。

澤井:もちろん投資家や環境保全に関わる団体・専門家からの要請もありますが、最近では企業の森林保全活動が、共感やエンゲージメントを育むひとつの手段としても注目されています。

長野:「当社の若手社員が、森林保全活動に誇りを持ってくれているから続けている」とおっしゃる企業もあります。

澤井:若者の間では「自然界隈」という言葉がSNSで使われ、自然を大切にし、自然の中で癒やされる時間を持とうとする姿勢が広がっています。そうした価値観と、企業の取り組みが重なる場面も増えている印象です。

長野:人材は企業にとっての資産であり、ウェルビーイングを目指して、森林を活用したメンタルヘルス対策などの取り組みも有効です。ドイツでは、医師が「1週間森に行きなさい」と処方するケースもあり、健康保険が適用されることもあります。まさに「森の処方箋」ですね。

TNFD情報開示だけでなく、行動の質が問われるように

──生物多様性に関する企業の取り組みのトレンドには、どんなものがありますか?

澤井:昨年は、企業からTNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)(※)に関するお問い合わせが多くありましたが、今年は「TNFDに対応し始めたけれど、これから何を求められるのか分からない」という声が増えています。TNFD自体は各社進めており、そこだけでオリジナリティを出すのは相当難しい。ですから、その企業らしい「行動」で示す方法をお勧めしています。

※=TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)
企業・団体が経済活動による自然環境や生物多様性への影響を評価し、情報開示する枠組み
澤井氏

長野:陸の生き物の8割は森に棲んでいるので、森林保全はネイチャーポジティブに貢献できます。企業の森林保全活動をどう企業価値につなげていけるかは、私自身も研究中です。むしろ企業と一緒に価値を作っていきたいですね。

澤井:森林活動をCSRの延長で続けている企業もありますが、その価値や意義をうまく言語化できていないケースも多く見受けられます。「企業価値には結びついていないが、世間体を考えるとやめにくい」といった声もある一方で、その取り組みの積み重ねは、かけがえのない大きな財産です。生物多様性が求められる今こそ、その活動を企業の価値や未来への投資として捉え直すチャンスなのではないでしょうか。

長野:実は1990年代にも、企業の森林保有が盛り上がりを見せました。そして現在、第2次ブームが来ていると感じます。ただし、ブームで終わらせてはいけません。森林は世代を超えて存続するからです。

モリアゲでは「一社一山」を提唱しており、一つの企業が自分事として森に長く関わることを勧めています。そうした継続的な関わりこそが、企業価値につながると考えています。

澤井:取り組みの価値を、自らの言葉で説明できることも重要ですよね。

長野:最近では計測技術やシミュレーション精度が向上し、森林保全による効果を定量化できるようになってきました。水源涵養(すいげんかんよう)や土砂流出防止といった効果を数値で示すことで、企業の取り組みが評価されていくはずです。

自然保全活動を企業の強みにする5つの視点

──電通で作成した「自然保全活動を企業価値として示すための5つの視点」についてご説明いただけますか?

澤井:生物多様性は地域ごとに状況が異なるので、「なぜその地域なのか」「どんな意志で取り組んでいるのか」をストーリーとして論理的に伝える必要があります。下記はその伝え方の視点です。長野さんにぜひご意見をいただきたいです。

自然保全活動を企業価値として示すための5つの視点
澤井:1つ目が「面積」です。30by30(2030年までに陸と海の30%以上を健全な生態系として保全しようとする目標)の観点から、保全面積を示すことが重要です。自然共生サイトの登録状況に加え、海外でも評価されているOECM(民間や地域による保全活動を国際的に認定する枠組み)への対応も含めて伝えられると、より信頼性が増します。さらに、気候変動との連携を考えられるとベストです。

2つ目は「お墨付き」。企業の保全活動を評価・支援してくれる専門家の存在は欠かせません。長野さんのような専門家と協働できると、活動への解像度も上がります。

長野:ただし「お墨付き」には注意が必要だと感じます。外部評価や認証を取りたい気持ちは理解できるのですが、多くのコストと時間がかかることもままあります。

私は最初に「お墨付き」から入ることはお勧めしません。まずは、その地域で自然観察に取り組んでいる人たちを支援したり、地域の大学や団体と共創したりするなど、地域と共に知見を深めるプロセスに意義があると思います。認証に頼らなくても、地域で実践を積み重ねること自体が大切と考えています。

澤井:確かに。専門家以外にも、各地域の生物多様性に知見のある方がいらっしゃると思うので、まずはその地域に詳しい方にご意見を伺ってもいいかもしれませんね。

3つ目が「効果の可視化」です。生物種の増減だけでなく、防災やヒートアイランド緩和など、保全の多面的な効果を社会に伝えることが必要です。単に「森は素晴らしい」だけでは伝わらないからです。

長野:効果の可視化は、森が当たり前の存在である地域の人たちにとっても、企業の発信を通じて「森にはこんなお宝があったんだ」と再発見することができると思います。そうした価値の交換が生まれることに期待しています。

澤井:4つ目は「地域課題」。地域と手を結び、保全を通じて課題解決に結びつける視点です。

長野:地域の方が気づいている課題と、外部から見えてくる課題の違いもあるので、お互いの視点を交換しながら取り組むと有意義ですね。自治体が住民を巻き込みながら街づくりに取り組む流れの中で、森林保全にも企業の視点が加わると面白い展開が生まれるかもしれません。

澤井:企業・地域・生物多様性という三者が支え合う「三方よし」の関係が築けると、活動も持続していくと思います。

最後、5つ目は「広がり」。1~4の要素がしっかり実践できていれば、他の場所でも横展開できる取り組みになっていくはずです。

成功例の横展開も、地域の独自性と掛け合わせるとオンリーワンの活動になる

──長野さんが関わってこられた活動で「広がり」に該当する事例はありますか?

長野:群馬県のみなかみ町では、20年以上イヌワシを守る森づくりに取り組んでいます。狩場の創出や森の再生を通じて、イヌワシの繁殖成功につながったんです。その横展開として、今年から山形県金山町でも地域と連携しながら新たな価値づくりを進める予定です。同じテーマでも場所が違えばその土地ならではのものになります。だからこそ、企業側の思いだけを押し付けるのではなく、地域との対話を通じて形をつくっていくことが大切です。価値の見つけ方を地域に学び、歴史と文化をリスペクトする姿勢があれば、無理なく継続的に関わっていけると思います。

澤井:生物多様性の保全においては、“どこで”取り組むかという場所の視点がとても重要です。実際、TNFDでも最初のステップは「場所の特定(Locate)」から始まります。

場所を特定するということは、その土地に根ざす自然環境や文化と深く関わっていくものです。まさに、地域は最大のステークホルダーといえます。地域らしさと企業らしさが重なり合うことで、独自のストーリーが生まれ、取り組みもより魅力的になっていくはずです。

──最後にお伺いします。お二人にとって森の魅力とは何でしょうか?

長野:実際、森に行くと圧倒的に気持ちがいい。それはきっと人類が森から生まれ、自然の中に戻りたいという本能があるからだと思うんです。森に興味がない人もだまされたと思って、一回行ってみてほしいです(笑)。

生物多様性の話にも通じますが、人間も自然の一部。人は自然を観察したり触れ合ったりすることで、人としての感覚を取り戻せるような気がしています。ネイチャーとウェルビーイングは、きっと切り離せないものなんでしょうね。

澤井:私もキャンプが大好きで、週末は大体森にいます(笑)。5つの視点を語った後でなんですが、「森っていいな」と感じる、そんな素直な気持ちこそがすごく大事だと思うんです。生物多様性の大切さをロジックで積み上げていくことももちろん必要ですが、理屈だけで人は動きません。

世の中に少しでも森に興味や関心が芽生えることで、そこから始まる行動が生物多様性を守る力になります。森に心が動く瞬間が、生物多様性のスイッチになる。そんな感覚的な実感こそが、本質的な自然の大切さを理解し、未来を豊かにしていくのだと信じています。

──本日は貴重なお話をありがとうございました。

対談の様子

 
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ノーペコ ラボ主催「めざせ、商品化!究極のノコサンレストラン2024」受賞アイデアがローソンで商品化 9月9日発売

食品ロス削減を目的として食パンの耳を活用したレシピを募集した、電通ノーペコ ラボ主催のコンテスト「めざせ、商品化! 究極のノコサンレストラン2024」でローソン賞を受賞したトキワ松学園高等学校の生徒のアイデアをもとに、ローソンが商品化した「黒糖とシナモン香るクロワッサン」(税込181円)を9月9日(火)から発売する。

今回発売する商品は、「めざせ、商品化!究極のノコサンレストラン2024」において、全国から寄せられた103案の応募の中から、ローソンでの商品化が決定するローソン賞を受賞したアイデアをもとに開発したクロワッサン。パンメーカーがパンを作る過程で発生し、通常は食品原料や飼料として再利用されている食パンの耳を生地に一部使用している。

「黒糖とシナモン香るクロワッサン」
「黒糖とシナモン香るクロワッサン」(税込181円) 粉砕した食パンの耳とシナモンパウダーを混ぜ込んだクロワッサン生地を焼き上げ、黒糖蜜を加えたカスタードクリームをサンドした。パッケージにはノーペコラボのキャラクター「ノコノコ」も登場。

商品は関東甲信越地区(長野県、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、山梨県)のローソン店舗(約4600店※2025年7月末時点、「ナチュラルローソン」「ローソンストア100」を除く)で発売する。

ローソンは、食品ロス削減の取り組みとしてこれまでに、規格外食材などを使用したおせち、「プレミアムロールケーキ」の生地の切れ端を使用したクリスマスケーキ、余剰食材となったまぐろのたたきや焼穴子を具材に使用した手巻寿司などさまざまなアップサイクル商品を発売し、好評を得ている。

■ノーペコ ラボについて
ノーペコ(ノー、腹ペコ!の意味)ラボは、飢餓・貧困の撲滅というテーマを柱に、「子どもと食」のあらゆる問題を、さまざまな企業・団体・世の中との掛け算で楽しく大きく解決することを目指した、電通ソデジン(ソーシャル・デザイン・エンジン)内のプロジェクト。2019年に発足。企業や団体の課題を解決しながら、いいことだとはわかっていてもいざ行動にはつなげにくい社会貢献を、みんながついやりたくなる、自分ごと化できる楽しい活動に変換していく活動を行っている。
Facebook:https://www.facebook.com/profile.php?id=100068660948955

関連記事 https://dentsu-ho.com/articles/9035
 

「AI人材は100億円の価値」──米国で進む人材争奪戦と日本企業への示唆

●この記事のポイント
・米国ではメタなどがAI人材に100億円規模の契約金を提示し、獲得競争が激化している。
・優秀な開発者は企業価値を数兆円押し上げる可能性があり、人材の二極化が進行中。
・日本企業は報酬だけでなく文化改革が不可欠で、経営層の意識転換が人材確保の鍵となる。

 米国ではメタをはじめとする大手AI開発企業が、有力な開発者に100億円規模の契約金を提示するなど、人材獲得競争が過熱している。桁外れの報酬水準は日本から見ると非現実的にも映るが、現地では合理的な判断として受け止められている。この現象の背景には何があるのか。そして、日本企業にとっての意味合いは何か。ソフトウェア企業 Idein(イデイン)代表取締役 CEO 中村晃一氏に見解を聞いた。

●目次

優秀なAI開発者が「数兆円規模の価値」を生む

 中村氏はまず、「優秀なAI研究者やエンジニアが一人存在するだけで、企業価値を数千億から数兆円規模に押し上げる可能性がある」と指摘する。

 従来は「凄腕エンジニアの生産性は平均的な人材の100倍」と冗談のように言われることもあった。しかし、生成AIの進展により、一人の開発者が数千人分の成果を上げることが現実的に可能な時代が到来した。結果として、100億円規模の報酬であっても投資回収可能との判断に至る。

人材の二極化と急速に価値を失う役割

 この状況は人材の二極化をもたらしている。「高度な研究やアルゴリズム開発ができる人材には報酬も案件も集中する一方で、単純な実装を担う“コーダー”は不要になる可能性が高い」と、中村氏は述べる。

 特に価値が高まる領域は以下のとおりだ。
●AIそのものの研究開発
●AIを活用したサービス開発や実装
●半導体、データセンター、通信といった基盤技術

 一方で、汎用的なシステム開発やUI開発などは価値低下が避けられないという。

日本で同様の現象は起こるのか…日本の課題は優秀人材が大企業を避ける構造

 日本でもAI人材の報酬は上昇傾向にあるが、米国と同水準の「100億円契約」が一般化する可能性は低いと中村氏はみる。その理由は市場規模の違いにある。ただし、外資系企業が積極的に採用活動を行う以上、日本の人材市場も影響を受けることは避けられない。

「報酬水準の上昇は確実です。問題は、日本企業がその競争にどう向き合うかです」

 日本におけるAI人材不足は「教育水準」では説明できない。むしろ構造的な要因が大きい。

●外資にトップ人材を奪われる
●国内大企業が人材にとって魅力的でない

 特に後者について中村氏は厳しい。

「日本の大企業は長らくソフトウェアビジネスを軽視してきました。経営層にソフトウェアを理解する人材が少なく、意思決定に反映されない。結果として、優秀な人材は外資やスタートアップを選びます」

必要なのはカルチャー変革

 AI人材を確保するために日本企業が取るべき道は明確だ。
「経営層にソフトウェア出身の人材を登用し、ソフトウェア投資を戦略の中心に据えるべきです。現状のカルチャーのままでは、優秀人材を惹きつけることは難しいでしょう」と中村氏は強調する。

 報酬面だけでなく、企業文化や意思決定構造そのものを変革しなければならない。それがなければ、外資との競争で勝ち目はない。

 本インタビューから得られる示唆は次の三点に集約できる。

・AI人材は一人で数兆円規模の価値を生む──高額報酬は投資として合理的。
・人材の二極化が加速──高度人材への集約と凡庸な役割の陳腐化が進む。
・日本企業はカルチャー改革が不可欠──経営層の意識と組織文化を変えなければ人材流出は止まらない。

 米国での「100億円人材争奪戦」は日本から見ると異例の現象だが、根底にあるのは人材が企業価値を決定づける時代に突入したという事実である。

 AIの進化は加速を続け、優秀人材は国境を越えて移動する。日本企業が直面している課題は、単なる人材不足ではなく、優秀人材が働きたいと思える組織文化を持ち得ていない点にある。

 経営者に求められるのは「自社が選ばれる会社であるか」を真剣に問い直す姿勢だ。AI人材戦略は、もはや経営戦略そのものである。

(文=Business Journal編集部、協力=中村晃一/Idein代表取締役CEO)

次世代半導体開発で企業連合=レゾナックなど27社参画


 

「JOINT3」設立の発表会に出席した参画企業の代表者。前列左から3人目はレゾナック・ホールディングスの高橋秀仁社長=3日午後、東京都港区

「JOINT3」の設立発表会であいさつするレゾナック・ホールディングスの高橋秀仁社長=3日午後、東京都港区
 レゾナック・ホールディングス(HD)は3日、人工知能(AI)向けなど次世代半導体の技術開発に関する企業のコンソーシアム(共同事業体)を新設したと発表した。半導体を最終製品に仕上げる「後工程」で使う中間基板を開発する。レゾナックなど国内外の27社が参加した。
 事業体の名称は「JOINT3」で、東京エレクトロンやウシオ電機、米アプライドマテリアルズなどが参画。レゾナックの下館事業所(茨城県結城市)に試作拠点を新設し、中間基板に適した材料や設計装置を開発する。総事業費は260億円で、2026年中の稼働開始を目指す。
 レゾナックHDの高橋秀仁社長は記者会見し、「半導体の技術革新には、装置や材料の精緻なすり合わせが不可欠だ」と述べ、意義を強調した。 
 中間基板は、生成AIの進化による半導体の性能向上に伴い、サイズが大型化。材料もシリコンから有機材料への移行が進んでおり、需要の変化に対応するための開発を進める。

(記事提供元=時事通信社)

(2025/09/03-19:19)

NVIDIA半導体に「バックドア疑惑」浮上 米中テクノロジー摩擦の新火種に

●この記事のポイント
・米中対立の新たな火種として、中国政府が米NVIDIAの最新GPU「H20」にバックドアが仕掛けられている可能性を指摘し、国内企業に使用を控えるよう求めた。
・だが、実際に半導体チップでバックドアが確認された例はなく、今回も政治的報復の色合いが強いと専門家はみる。
・NVIDIAにとって中国市場は売上の約15%を占め、数十億~200億ドル規模の影響も懸念される。

 米中対立の新たな焦点として、半導体業界を揺るがすニュースが世界を駆け巡った。中国政府が米半導体大手NVIDIA(エヌビディア)の最新GPU「H20」にバックドアが仕掛けられている可能性を指摘し、国内企業に使用を控えるよう通達したと報じられたのである。

 バックドアとは何か、本当に存在するのか、そしてこの問題が両国や日本企業にどのような影響を及ぼすのか。半導体産業を長年取材してきた国際技術ジャーナリストで「News & Chips」「セミコンポータル」編集長の津田建二氏に話を聞いた。

●目次

バックドアとキルスイッチとは?

 そもそも、バックドアと何か。

「バックドアとは文字通り『裏口』です。システムやチップに、通常の認証ルートを通らず外部から侵入できる秘密の経路を設けることを指します。これがあれば、正規の利用者が気付かぬうちに情報を抜き取られる可能性がある」(津田氏)

 さらに、バックドアとしばしば並んで語られるのが「キルスイッチ」だ。

「これは、バックドアを通じてシステムを遠隔で無効化し、動作不能にする仕組みのことです。たとえばサーバーやAI開発に用いられるGPUが、ある日突然使えなくなる。国家安全保障の観点からすれば恐るべきリスクですね」(同)

 つまり、バックドアは「侵入」、キルスイッチは「停止」。情報覇権をめぐる米中の駆け引きの中で、この二つの言葉は大きな政治的意味を帯びている。

ファーウェイ問題の“逆輸入”

 なぜ今、このような疑惑が浮上したのか。津田氏は「これは報復的な意味合いが強い」と指摘する。

「過去にアメリカは、中国の通信機器大手ファーウェイの製品にバックドアが仕込まれていると主張しました。『通信データが中国政府に流出する』と安全保障上の懸念を訴え、同社製品の排除を各国に働きかけたのです。結果として、欧米諸国を中心にファーウェイ製通信インフラは締め出されました」

 しかし、実際に「決定的なバックドアの存在」が確認されたケースはなかった。調査の末に「疑わしいが証拠はない」という結論に至った例が大半だったという。

「今回のNVIDIA疑惑は、その“鏡写し”です。アメリカがファーウェイを叩いたように、中国側もNVIDIAを槍玉に挙げているのです」(津田氏)

チップにバックドアを仕込むことは可能か?

 では、半導体チップに実際にバックドアを仕込むことはできるのだろうか。津田氏は懐疑的だ。

「通常、チップにアクセスするには共通のインターフェースを通じるしかありません。そこには認証システムが設けられ、正規利用者かどうかを確認する。裏口を作ること自体、理論的には不可能ではないでしょうが、極めて難しい。仮に特殊なプロトコルを用意しても、専門家が解析すれば痕跡は見つかるはずです」

 これまで実際に「チップにバックドアが見つかった」という事例は、少なくとも公開情報としては存在していない。

「つまり、現時点では疑惑の域を出ない。むしろ政治的メッセージの意味合いが強いと見るのが自然です」(同)

NVIDIAへの影響は甚大か?

 とはいえ、中国市場での不買通達は、NVIDIAに少なからぬダメージを与える可能性がある。

「NVIDIAの売上のうち、中国が占める割合は約15%程度とされます。仮に本格的に排除されれば、数十億ドルから200億ドル規模の損害を被るとの試算もあります」(津田氏)

 実際、NVIDIAは米国政府の輸出規制を受け、中国向けGPU「H20」を一度は出荷不能とし、在庫を損失計上していた。しかし2024年夏に規制が緩和されると、一転して中国に供給を再開。積み上げた在庫を吐き出し、売上を回復させつつあった。

「その矢先の“バックドア疑惑”ですから、企業戦略にとって痛手になることは避けられません」(同)

日本企業への波及は?

 では、日本企業はどう影響を受けるのか。

「日本の半導体メーカーは、残念ながら最先端プロセスでは存在感が小さい。そのため直接的な打撃は限定的でしょう。ただし製造装置メーカーには影響があります」(津田氏)

 東京エレクトロンやSCREENなどの装置メーカーは、ここ数年、中国向け出荷が不安定に揺れてきた。2023年には「今のうちに買っておこう」と中国企業が駆け込み購入を行い、特需で売上が急増。しかし2024年以降は反動で需要が減少している。

 一方、アドバンテストなどテスト装置メーカーは、AIチップ需要の急拡大により業績が好調だ。

「つまり、日本企業全体への影響は一律ではなく、装置の種類や需要のタイミングで明暗が分かれるのです」(同)

H20は“性能削減版”ではない?

 さらに津田氏は、報道でしばしば誤解されている点を指摘する。

「H20は、アメリカの規制に合わせて機能を削減したとされていますが、それほど大幅な性能低下ではないのです。GPUは並列処理で成り立っており、ミニGPUが多数組み込まれている。H200に比べてH20はその数を減らしただけ。つまり、複数枚を並べれば同等の性能を実現できる。中国企業にとっては十分に実用的な製品なのです」

 加えて、中国国内のチップ開発力は依然として限定的だ。ファーウェイ製GPUも性能面で課題が指摘されており、実際のユーザー企業は「結局はNVIDIAを使いたい」というのが本音だという。

「政府は『使うな』と言っても、企業は裏ルートで導入するでしょう。中国ビジネスの常套手段です」(同)

米中対立の新段階

 NVIDIAバックドア疑惑は、事実関係が確認されていない以上、科学技術というより政治の領域に属する問題だ。だが、AI・半導体が国家戦略の核心にある以上、今後も類似の“疑惑”が相互に持ち出される可能性は高い。津田氏はこう結ぶ。

「米中双方ともに、半導体を戦略兵器として扱っている。疑惑が事実であるか否かよりも、相手の成長を抑制するカードとして使う。企業は翻弄されますが、我々は“事実”と“政治的思惑”を冷静に区別する視点を持つことが必要です」

まとめ

・バックドア=裏口からの侵入、キルスイッチ=遠隔停止機能。
・過去のファーウェイ問題同様、今回も政治的駆け引きの色合いが濃い。
・実際にチップにバックドアが仕込まれた事例は確認されていない。
・NVIDIAには数十億~200億ドル規模の影響の可能性。
・日本企業への影響は限定的だが、装置メーカーは需給変動で揺れる。
・H20は性能削減版とされるが、実際には十分な実用性を持つ。

 AIと半導体が国際秩序を左右する時代。NVIDIA疑惑は、単なる“噂”に留まらず、米中覇権争いの新たな局面を象徴する出来事といえるだろう。

(文=BUSINESS JOURNAL編集部、協力=津田建二/国際技術ジャーナリスト)