【異業種協業のススメ】産学連携による、人・ペットの豊かな共生社会を目指す取り組み

MARS JAPAN

日本では近年、ペットの飼育頭数や飼育意向が減少傾向にあり、人とペットの共生に向けた環境づくりが課題となっています。特に、ペットに対して「苦手」「嫌い」「興味がない」といった感情を持つ人たちとの関係性については、業界全体でも十分に向き合いきれていない領域です。

そうした中、マース ジャパン リミテッド(以下、マース ジャパン)は東京理科大学および電通とともに産学連携プロジェクトを推進し、「ペットが苦手・嫌いな人・興味がない人とペットの共生」という難題に向き合いました。プロジェクトの主役は、東京理科大学の学生たち。調査と分析、議論を重ねた上で、「心理的・物理的な距離」に着目した提案を行い、企業側からも高く評価されました。

本プロジェクトの背景や取り組みの様子、そこから見えてきた新たな気づきについて、プロジェクトメンバーのインタビューも交えながらお伝えします。

「ペットが苦手・興味がない人」とペットの共生は成り立つのか?

マース ジャパンは、「ペットのためのより良い世界(A BETTER WORLD FOR PETS)」の実現というパーパスのもと、ペットとの豊かな共生社会の実現に向けてさまざまな取り組みを進めています。その一環として、2025年春、東京理科大学 経営学部 国際デザイン経営学科(以下、東京理科大IDM)柿原研究室の産学連携による課題解決型プロジェクト「キャップストン・プロジェクト」に、電通と共に参画しました。

本プロジェクトは、同学科の大学4年間の学びの集大成として、実際に企業が抱えている課題解決にチャレンジする取り組みです。今回、マース ジャパンから提示されたテーマは、「よりよいペットとの共生社会を実現するために、『ペットが苦手・嫌いな人・興味がない人とペットの共生』に向けてマース ジャパンができること」。多様化する価値観の中でも、特にペットに対して距離を置く人びとに目を向けた施策立案は、非常に難易度の高いチャレンジでした。

約3カ月にわたる取り組みには、柿原研究室に所属する6人の学生が参加。メンバーの中には、動物が大好きな学生だけではなく、動物との関わりに不安や苦手意識を持つ学生も含まれており、まずはお互いの感じ方や価値観を知るところからプロジェクトはスタートしました。

その上で、「ペットが苦手、嫌いな人・興味がない人」をターゲットに設定し、その中でもペットの飼い主になることに興味がない層の人びとの現状を丁寧に分析しました。現状把握にあたっては、リサーチクエスチョンを設定し、定量・定性の両面から調査を実施。収集されたデータをもとに、ペットの飼い主になることに興味がない人びとの心理的・物理的な距離感を可視化し、その特性に応じて「ペットが好き、かつ得意」「ペットが好きだけど、苦手」「ペットが嫌い、かつ苦手」など4つのグループに分類しました。

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こうした分析に基づき、セグメントごとに心理的・物理的距離感を縮めるための施策を考案。たとえば、犬猫に感じる人間らしい瞬間を集めるUGC施策や、マジックハンドを介した犬猫ふれあい体験など、3つの具体的なアプローチを提案しました。

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いずれの提案も、それぞれの距離感に寄り添いながら、少しずつ共生の可能性を広げていくような、多様性を尊重する姿勢が軸に据えられていました。

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最終提案会では、メンバー全員がパートを分担してプレゼンテーションを実施した

発表当日は、マース ジャパンのオフィスに同伴出勤していた犬や猫との触れ合いも行われ、学生たちにとっても、みずからの距離感が少し変化する実感を得る機会となりました。プレゼンテーションはその内容はもちろんのこと、構成力や伝え方の点でも高く評価され、提案された施策はマース ジャパン内部でも大きな反響を呼びました。

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こうしたアウトプットに至るまでには、学生たち自身が抱えていた迷いや葛藤、そして徐々に深まっていった課題への理解がありました。また、マース ジャパンをはじめとするプロジェクトメンバーによる伴走も、アウトプットを磨く上で欠かせない要素となっていました。

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この産学連携プロジェクトは、どのような経緯で始まり、どんな成果と気づきをもたらしたのでしょうか。プロジェクトの背景や実施後の手応えなどについて、マース ジャパンの河合英栄氏、中村由帆氏、東京理科大学の柿原正郎教授、電通の大島聡、山下友希に聞きました。

マース ジャパン×東京理科大×電通が、あえて困難な問いに挑んだ理由

──今回のテーマでは、「ペットが苦手・嫌いな人・興味がない人」との共生に焦点を当てています。マース ジャパンがあえてその領域を取り上げた背景には、どのような課題意識があったのでしょうか。

河合:私たちは、「ペットのためのより良い世界(A BETTER WORLD FOR PETS)」の実現というパーパスを掲げて活動しています。その実現に向けて、人とペットが安心して共に暮らせる社会をどう築くかは、非常に重要なテーマです。ペットは癒やしや喜びを与えてくれるだけでなく、健康やコミュニティ形成など、さまざまな面で人間社会にポジティブな影響をもたらします。こうした価値は感覚的なものにとどまらず、科学的にも実証されています。

その一方で、日本ではペット、特に犬の飼育頭数が年々減少し、新たに飼いたいと考える人も減っています。動物と触れ合う機会も少なくなり、街中で犬の散歩を見かける頻度が減ったり、近所で動物と接する体験が減ったりしている。結果として、ペットに興味がない、あるいは苦手と感じる人が増えているのが現状です。

これまで私たちは、主にペットを愛する方々に向けてサービスや製品を展開してきましたが、共生社会の実現を本気で目指すなら、そうした「距離を置く人びと」とも向き合わなくてはなりません。私たちにとっても、これまで積極的に研究できていなかった層を理解する大切な機会になると考え、今回のテーマ設定に至りました。

中村:今年、設立50周年を迎えた当社はペットケア事業の新たなビジョンとして「ペットといっしょに、もっと、『ぬくもり』と『よろこび』であふれている世界に」というメッセージを掲げました。この「世界」とは、ペットと飼い主だけではなく、ペットを飼っていない方も尊重される社会であるべきです。今回のようにペットに関心がない人や苦手な人との共生を改めて考えることは、このビジョンの本質と重なっていますし、今までとは違う角度から共生のかたちを探っていきたいという思いがありました。

──柿原先生は、最初にこのテーマを受け取った時の印象はいかがでしたか?

柿原:率直に言えば、非常に難しいテーマをいただいたなと思いました(笑)。人とペットの共生社会というだけでもスケールが大きいのに、その中で「ペットが苦手な人との共生」を考えるというのは、学生にとっては簡単な課題ではありません。ただ同時に、「これはすごく良いテーマだな」とも思ったんです。

私が所属する東京理科大IDMは、まだ創設から5年ほどの新しい学科で、答えのない問いに挑むことを教育の柱としています。4年生全員が必修で取り組む「キャップストン・プロジェクト」も、企業の方々と連携しながら実社会の課題に向き合うことを前提としています。そうした意味で、今回のテーマは本学科の理念と非常に相性が良いものでした。

加えて、ペットというテーマは学生にとっても身近ですし、そこから「共生」という大きな社会課題を自分ごととして考えるきっかけになると思いました。私自身も最近ペットを飼い始めたばかりだったこともあり、現代のペットをめぐる状況や断絶について身をもって感じていたところでした。だからこそ、このテーマが教育的にも実践的にも意義のあるものになると強く感じたんです。

──電通としては、この産学連携プロジェクトをどのように設計し、どんな役割を果たそうと考えていたのでしょうか。

大島:私たちの役割は、ひと言でいえば「プロデューサー」です。マース ジャパンさんと学生の皆さんの間に立ち、皆さんの役割を明確にした上で、プロジェクトがスムーズにより良いかたちで進むよう支援する存在です。その上で、特に意識していたのは“バランス”ですね。

学生に対しては、私たちからのディレクションは一切行わないことを決めていました。あくまで学生ならではの自由な発想を守りながら、必要な場面でそっと背中を押す。それがこのプロジェクトでの適切な距離感だと考えました。一方で、マース ジャパンさんとは難しいテーマだからこそアウトプットに対する期待値のすり合わせを丁寧にさせていただきました。

もう一つ、大切にしていたのは「単なる勉強で終わらせないこと」です。提案のクオリティ次第では、本当に社会実装につながる可能性もある。その可能性をきちんと見据えて、最後までアウトプットを出し切ることにこだわって伴走したつもりです。

河合:正直、どんなアウトプットが出てくるのか、当初は不安もありました。ただ、今回は電通さんや柿原先生がしっかりと伴走してくださる体制でしたし、私たちも「正解のない問い」だからこそ、さまざまな意見やアイデアを前向きに受け止めようという姿勢で臨みました。むしろ、普段触れることのない視点や感覚に出会えることへの期待のほうが大きかったですね。

マース ジャパン リミテッド 河合英栄氏
マース ジャパン リミテッド 河合英栄氏

マーケットの外側にいる人たちを取り残さない。学生の提案から得られた気づき

──学生たちの最終提案を受けて、どのような印象を持たれましたか?

河合:率直に、非常にレベルの高い提案だったと感じました。特に、苦手な人たちを一括りにするのではなく、「なぜペットが苦手なのか」「興味がないとはどういうことなのか」という部分に粘り強く向き合い、さらに細かく分類し、それぞれに対して有効なアプローチを提案してくれた点は本当に素晴らしかったです。みずからのスコープを広げて、多面的に考え抜いてくれた姿勢にとても感動しました。

さらに、心理的距離と物理的距離という軸を導き出し、それに基づいて提案内容を設計していた点にも一貫性があり、仮説からアウトプットまでの筋道が見事でした。私自身だけでなく、プレゼンを聞いていた社内メンバー全員が驚いていたほどです。

それに加えて、熱意のこもったプレゼンテーションだったことも印象に残っています。AIを駆使して画像を作成したり、実際の施策を自分たちのペットで反応をみた動画を制作したりするなど、伝わりやすさを考慮したアウトプットに仕上げてくれました。前日に電通さんからアドバイスを受けて、翌日のプレゼンに反映してきたことにも驚きましたし、チームワークの強さを感じました。

提案内容には、学生それぞれの実体験も色濃く反映されていました。中にはペットが苦手な学生もいたと聞いていますが、そうしたメンバーの視点が加わったことで、説得力が格段に増していたと思います。プレゼンを終えた後には、感極まって涙する学生もいたほどで、そこまで真剣に取り組んでいただけたことがうれしかったです。

中村:私はプレゼンを通じて「このチームの中で相当な議論があったのだろうな」と感じました。ペットが好きな人とそうでない人が一緒に課題に向き合うというのは、想像以上に難しかったと思います。実際、好きな人からすれば「そんな考え方あるの?」と驚くような意見があったでしょうし、逆に嫌いな人からすると、押しつけがましく感じられる瞬間もあったかもしれません。

だからこそ、最終的にここまでまとまったアウトプットになっていたことに驚きましたし、非常に高く評価しています。それぞれが自分の立場から率直に発言しながら、チームとしてまとめあげたからこそ出せた提案だったのではないかと思います。

これは余談ですが、社内でこのプロジェクトを共有した際、AIで作られたビジュアルを見て「本当にAIネイティブな世代なんだね」というフィードバックもありました。自然にAIを活用し、違和感なくアウトプットに組み込んでいる点が新鮮で、今後こうした提案が当たり前になっていくことを実感しました。

マース ジャパン リミテッド 中村由帆氏
マース ジャパン リミテッド 中村由帆氏

──最終提案の日には、マース ジャパンの社員の方々が犬や猫を連れて、学生たちと触れ合う機会を設けたそうですね。

河合:学生の皆さんがせっかく弊社に足を運んでくださるので、何かお礼になればと思い、ペットを飼っている社員に声をかけてオフィスに猫や犬を連れてきてもらいました。触れ合いを通じて、提案の中でも語られていた「心理的・物理的距離が縮まることで意識が変わる」というプロセスを、実体験として感じてもらえたのではないかと思います。

実際に、ペットに対して苦手意識があった学生が、サポートを介して自分からワンちゃんにおやつをあげるようになった場面もありました。そのとき、「私にもできるんだ」と言ってくれたのがとても印象的で。まさに皆さんが立てた仮説がその場で証明された瞬間だったと思います。

──柿原先生が、学生たちを指導する上で意識されていたことを教えてください。

柿原:私自身は、学生がリアルな企業課題にどう向き合い、少しでも社会の役に立つようなアウトプットを生み出すには、どのようなサポートが必要なのかを常に考えながら関わっていました。その上で、マース ジャパンさんや電通さんが、学生に対して深い教育的視点を持って丁寧に接してくださったからこそ、私はあえて厳しめのディレクションを意識しました。

たとえば、私が学生たちに最初に伝えたのは、大学の評価基準とビジネスの現実の違いです。大学では60点で合格、80点で優秀とされるかもしれないが、社会では常に期待を超えることが求められる。つまり、100点でも足りず、120点、150点を目指さなければ次の仕事につながらない。時間とエネルギーをかけて関わってくださる大人たちがいる以上、その期待を超える成果を出すべきだと伝えていました。

東京理科大学 柿原正郎教授
東京理科大学 柿原正郎教授

一方で、私にも反省点はあります。若い視点や素直な感性が学生の最大の強みであることは頭では理解していたつもりでしたが、気づけば自分の経験や知識に基づいた指示が多くなっていたのです。たとえば、当初いただいたテーマは「ペットが苦手・嫌いな人・興味がない人とペットの共生」でしたが、私は「全く関心がない人や嫌いな人にアプローチするのは難易度が高すぎるのではないか」と考え、比較的動かしやすい層、つまり多少なりとも関心を持っている人たちに絞ったほうがよいのではとアドバイスしました。

しかし、それに対して学生たちは「日本のペット飼育率を見ても、飼っていない人のほうが圧倒的に多い。だからこそ、自分たちは“外側”にたくさんいる人たちを変えることに挑戦したい」と、はっきりと意志を示してきました。

そのとき思い出したのが、最初のブリーフィングで河合さんや大島さんが言ってくださった「答えのないテーマだからこそ、ワクワクしながら楽しんで取り組んでほしい」という言葉でした。私自身が期待を超える成果にこだわり過ぎたせいで、原点を少し見失いかけていたのかもしれません。それに気づいてからは、学生たちが本当に挑戦したい対象に向き合えるよう、後押しに徹するようにシフトしました。

結果的に、学生たちは非常に難しい課題に真っ向から取り組み、そこから大きく成長してくれました。そして私自身も、彼らとの対話を通して、多くの気づきや学びを得ることができたと思っています。

山下:学生の皆さんの提案については、最初にいただいたプランの時点で完成度が高くて、これは本気で向き合わなければならないと強く感じました。ただ、いざ本格的に向き合おうとすると、私たちはどうしてもフィジビリティなど現実的な視点に引っ張られがちになります。その中で皆さんが描いた「できるかどうか」ではなく「やってみる」という姿勢、そしてその夢の大きさはとてもピュアで、自分が忘れかけていた感覚を思い出させてくれました。

最初の頃はデータをよく調べてくれていて、その点は本当に素晴らしかったです。ただ一方で、仮説思考についてはまだ発展途上で、データをなぜ集めているのか、その先の提案にどう落とし込むのかが見えてこない時期もあったように思います。情報を集めすぎてしまい、逆に迷ってしまっていたような印象もありました。私たちとしても、どのようにヒントを出せばよいか模索しながら伴走していたことを覚えています。

それでも、自分たちの本当にやりたいことを見極め、「すべての人が心地よい距離感でペットと共に過ごせる社会」を目指すというゴールを定めてからは、流れが一気にスムーズになったと感じています。その成長には本当に驚かされましたし、私自身も「負けていられない」と思わされました。

電通 山下友希
電通 山下友希

柿原:私はこれまで、どちらかといえばデータドリブン、エビデンスベースでの思考や提案を重視してきましたが、今回のように「まだ実証されていない未来」を構想するには、ストーリーテリングや想像力、つまりアイディエーションが非常に大切なんですよね

ペットが苦手な人や興味のない人に向けた最初の体験設計というのは、単なる合理性では測れない部分があります。人は体験を通じて初めて気づくことが多く、心理的な壁を乗り越えるためには、その人の生活の中に自然に溶け込むような「きっかけ」が必要になる。その意味で、学生たちが構想した施策のストーリー性はとても重要な意味を持っていたと思います。

プロジェクト中盤以降、電通の皆さんのメンタリングによって、前半で収集した定量・定性データと、後半で描いた理想の社会の姿とがうまく噛み合いはじめた瞬間がありました。あのタイミングで一気にプロジェクトが加速した感覚があり、非常に印象深かったです。

大島:私たちからも、プレゼンを受けて特に印象的だった気づきをいくつかお伝えしたいと思います。

まず一つは、「体験」の重要性です。学生のアイデアの多くが、広告や啓発的なメッセージを一方的に伝えるのではなく、「実際に体験してもらうこと」をベースにしていた点に、大きな可能性を感じました。これは私たちが現在取り組んでいるCX(カスタマー・エクスペリエンス)の文脈でも非常に重要なテーマであり、まさにその本質を学生たちは自然と掴んでいたのだと思います。

たとえば、マジックハンドを使ったプロトタイプを自作し、実際に試してみるなど、行動と構想を何度も往復しながらアウトプットを深めていくスタイルには、強い実践力と感性を感じました。

また、チームにおける多様性の重要性も改めて感じました。意見がぶつかり合い、時には涙がこぼれるような場面もあったと聞いていますが、そうした対話や葛藤こそが、視野を広げ、想定外のインサイトにつながるのだと思います。

AIネイティブ世代ならではのアプローチにも驚かされました。プレゼン資料のビジュアルをAIで生成したり、分かりやすさや伝わりやすさを最大化するための工夫がごく自然に取り入れられていて、これも今後のプロジェクト設計のヒントになると感じました。

最後に、最も大きな気づきは「コミュニティとそれ以外の人たちとの関係性の設計」の難しさです。たとえばトライブマーケティングでは、特定の嗜好を持つ層に向けた施策が有効な一方で、それ以外の人たちを分断してしまうリスクがあります。今回の提案は、まさにコミュニティの外側にいる人たちを見つめるものであり、マーケティングが無意識のうちに排除してしまいがちな存在にどう寄り添うか、という大切なテーマを思い出させてくれました。

電通 大島聡
電通 大島聡

柿原:そこが今回のテーマの本質だったと思います。ROIだけで考えれば、消費意欲の高いセグメントに注力するのがビジネスとしては効率的かもしれません。でも、社会全体をより良くするためには、マーケットの外側にいる人たちへのまなざしも不可欠です。今回、その視点を共有していただけたマース ジャパンと電通という強力なパートナーと一緒に取り組めたことは、学生たちにとっても、私自身にとっても大きな財産になりました。

産学連携がもたらす、新しい視座。三者の相互理解から生まれた成果

──今回の取り組みを通じて、産学連携の価値や可能性について感じたことがあれば教えてください。

河合:われわれが普段見落としている視点やアプローチに気づかせてもらえるのが、産学連携の大きな価値だと実感しています。たとえば、メッセージではなく体験に重きを置いた姿勢は、非常に新鮮でしたし、多くの学びがありました。

また、学生さんと企業が直接組むだけではなく、電通さんが間に入ってくださったことで、提案の背景にあった熱量や努力、設計思想をより深く理解することができました。この三者の座組だからこそ、ここまでのアウトプットにつながったのだと思います。

大島:近年の複雑化・コモディティ化した時代においては、一つの企業・団体だけで課題を解決することは難しくなっています。そういった意味で、産学連携には非常に大きなポテンシャルがあると考えています。今回は柿原研究室の枠での3カ月間という短期間でしたが、今後は中長期的な産学連携のかたちも広がっていくべきだと思います。

そして、この取り組みを成立させるには、何よりも「相互理解」が重要です。大学や学生の立場、各企業の立場、場合によっては行政の立場も含めて、それぞれの役割と立場を理解し、歩み寄ることが欠かせません。その点で、今回のプロジェクトは非常に理想的だったと感じています。

山下:“産”と“学”の視点を掛け合わせることで、思考の質がぐっと深まる感覚がありました。ブランドとして目指す理想と、生活者としての素朴な疑問や感覚が交差することで、より本質的な提案が生まれる。そこに電通として、両者を行き来しながら関与できる意義を改めて感じました。

柿原:大学側としても、自分たちのリソースやアセットをもっと企業に届けていかなければいけないと感じています。そのためには、触媒的に動いてくださる存在が不可欠です。企業・大学・そして支援者という三者の協働モデルは、今後の新たなスタンダードになり得ると感じました。

河合:私自身、最初は「なぜ電通さんが入っているのか」と正直疑問に思っていたのですが(笑)、今ではその役割の大きさに感謝の気持ちでいっぱいです。提案を聞いたマース ジャパンのメンバーからは「すぐに実行したい」といった声も上がりました。それもこの座組だったからこそ得られた成果だったと、改めて思っています。

一社では解決できない課題「共生社会の実現」を目指して

──学生からの提案を踏まえて、今後どのような展開を検討しているのでしょうか?

河合:ご提案いただいた施策は、本当にどれも非常に素晴らしいものでした。物理的・心理的な距離をどう縮めていくか、しかもそれを一足飛びではなく段階を踏んで取り組むというアイデアは、まさにその通りだと感じています。

もちろん、いただいた提案をそのまま実行に移すというわけではありませんが、現在、弊社では「ペットといっしょに、もっと、『温もり』と『喜び』であふれている世界に」というビジョンを具現化するチームが動いています。そのディスカッションの中で、このプロジェクトで出てきたアイデアも含めて検討を進めていきたいと考えています。

ペットが苦手、興味がないという方々に向けてマース ジャパンとして何ができるのか。まさに今回のお題そのものでもありますが、それを具体化する上でも、この提案は非常に有意義な示唆を与えてくれました。

中村:このテーマは、決して弊社だけの課題ではありません。むしろ、ペット業界全体で取り組むべき社会的な課題だと考えています。一社だけでアクションを起こしても、そのインパクトは限られてしまう。だからこそ、業界全体で飼育意向や関心を高めていくような取り組みが必要だと感じています。

マース ジャパンのペットケア事業のミッションの一つに「志を同じくする人や団体、関係者と共に、新たなペット市場の創造に挑戦する」というメッセージがあります。今回の提案を、そのミッションを具現化するヒントとして、より大きなスケールで展開していく方法を模索していきたいです。

──柿原先生は教育の観点から、今回のプロジェクトの意義や今後への期待をどう捉えていらっしゃいますか?

柿原:まず、学生たちにとって非常に実りある体験となったことを、心からありがたく思っています。リアルな社会課題に向き合い、形にしていくプロセスの中で、多くの学びがあったはずです。

また、最終提案後にフィードバックをしていただいたときの「ここからが本番だよ」という言葉も非常に意味のあるものでした。提案して終わりではなく、それを社会に実装するためにはどれだけのハードルがあるか、という現実に触れたことは、教育的にも大きな意味があったと思います。

もう一つは、社会課題とどう向き合うかという点です。今回のテーマはペットとの共生でしたが、これはペット業界だけの問題にとどまりません。少子高齢化が進む社会の中で、どう幸せに生きていくか、自分の暮らしをどう設計していくかという視点でも非常に重要な問いだと感じました。ペットを飼うことが当たり前ではなくなりつつある今の若い世代にとって、ペットとの関係性のあり方を再考することは、社会全体の構造に対する新たな気づきを与えるものだったと思います。学生たちには今後の人生の中でも問い続けてくれることを願っています。

──電通としても、今後に向けた展望があればお聞かせください。

大島:今後さらにこのような産学連携プロジェクトを加速させ、広げていきたいと考えています。多様なステークホルダーとつながる力を生かし、産・官・民・学が連携するプラットフォームをつくっていくことが、われわれにできる重要な役割の一つです。特に今回は、プロダクトベースではなく課題ドリブンで社会課題にアプローチするという姿勢が非常に重要だったと感じました。だからこそ、今後はクライアント企業同士をつなぎ、業界全体を横断したアクションを起こす“ハブ”の役割を、われわれが担っていきたいと思っています。すでにそのためのネットワークづくりも始まっており、着実に広がりを見せています。

山下:個人的な意気込みになりますが、私自身もペットに対して強い情熱を持っています。この熱量を持ったまま、今後も誰よりも熱く、そして前向きにこのプロジェクトを推進していきたいです。より多くの企業や関係者を巻き込みながら、学生たちが描いた理想の共生社会に少しでも近づけるよう、チャレンジし続けたいですね。


【PJメンバー】

<マース ジャパン リミテッド>
・CMO / マーケティング ディレクター:河合英栄 氏
・広報・渉外部 ディレクター:中村由帆 氏
 
<東京理科大学>
・柿原正郎教授
・学生の皆さん
 
<電通>
・第6ビジネスプロデュース局
 アカウントリード6部 三輪直紀
 アカウントリード5部 辻直子
 
・第7マーケティング局
 CXコンサルティング1部 大島聡
 マーケティングコンサルティング2部 山下友希
 
・第2マーケティング局
 マーケティングコンサルティング3部 小田健太
 
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ビジネスにインクルージョンを実装するなら、当事者との共創がカギになる

インクルージョン(包摂)の重要性は誰もが口にするものの、いざ実装となると、なかなか進まないことが多いのではないでしょうか。

特に、「当事者の視点をどのように事業に取り込み、事業成果につなげるのか?」という問いに対し、明確なモデルが少ないまま、現場は模索を続けています。

本連載では、こうした悩みにヒントを示すべく、インクルーシブデザインの「実装」に取り組む専門家や現場の声を交えながら、実践的な視点でひもといていきます。

第1回は、共に「インクルーシブデザイン」をテーマにした研究開発に取り組む、筑波技術大学と電通グループ3社(電通、電通総研、ミツエーリンクス)のメンバーによる座談会です。

4者はそれぞれの強みを生かし、インクルーシブな思想を取り入れた企業の事業・サービス開発や課題解決に取り組んでいます。なぜこのプロジェクトが立ち上がったのかを伺いました。

筑波技術大学
日本でただ1つの視覚障害者と聴覚障害者のための高等教育機関。視覚障害学生が学ぶ「保健科学部」、聴覚障害学生が学ぶ「産業技術学部」に加え、2025年から、両障害学生が情報アクセシビリティに関する情報科学と障害社会学を学ぶ「共生社会創成学部」が新設された。

電通総研 関島章江氏、ミツエーリンクス 木達一仁氏、筑波技術大学 谷貴幸氏、電通 山田健人氏
(左から)電通総研 関島章江氏、ミツエーリンクス 木達一仁氏、筑波技術大学 谷貴幸氏、電通 山田健人氏
<目次>
「経済合理性」と「共創」の両輪がインクルージョン実装のカギ

電通からの意外な問い合わせ

社会貢献を通じて「経済も」回していくことが本来のあり方

インクルージョンで障害のある人も、そうでない人も生きやすい社会に

「経済合理性」と「共創」の両輪がインクルージョン実装のカギ

山田:まず私から自己紹介をすると、私は電通のサステナビリティコンサルティング室(SC室)という部署におります。この部署はさまざまなサステナビリティ課題を起点に企業の事業成長を支援しています。そこで、昨年まで同室に出向していた電通総研の関島さんと、インクルージョンの実装についてよく話していたんですよね。

関島:電通総研は、シンクタンク、コンサルティング、システムインテグレーション機能を有する電通グループ企業で、私自身はOpen Innovationラボという組織で、長年、教育にテクノロジーを活用した、個別最適化をキーワードとした「アダプティブラーニング」の研究開発をしてきました。子どもたちにはそれぞれ特性があって、これからは個々の得意や好きな部分を生かすための学びが必要であり、従来のような一斉型の授業では対応しきれていない。そこをIT活用で解決していくという研究です。

3年前に電通のSC室に出向となり、DEIに関わるようになって、個々の特性や多様性の理解とデジタル化によるアプローチという点で通じるものがあるなと感じていました。山田さんと社会に対して影響を与えるような取り組みを、一緒に何かできないかという話になり、アクセシビリティの専門性をもつミツエーリンクスさんにもお声がけしたわけです。

木達:ミツエーリンクスは2024年4月に電通総研の完全子会社として、電通グループに加わったウェブ制作会社です。私自身はウェブサイトの構築・運用に幅広く関わっており、中でもアクセシビリティの専門家として20年以上取り組んでいます。ウェブ制作におけるアクセシビリティとは、障害者・高齢者だけでなく、さまざまなユーザーがサイトの機能を利用できるという、ひらたく言えば「みんなが使える」品質特性のことです。

山田:この電通グループ3社に加え、当事者との共創という観点で、ぜひ一緒に取り組みたいということでお声がけしたのが、谷先生の筑波技術大学でしたね。

谷:私は筑波技術大学で副学長をしています。大学での専門は機械工学ですが、いろいろなことをしていて、特別支援学校高等部を回りながら学生募集なども行っています。今は共生社会創成機構という組織にも属しており、電通さんとのお仕事も担当しています。

共生社会創成機構について少し説明すると、学外機関との連携を通じて、障害のある人もない人も共に生きる社会をつくることを目標にした組織です。共生社会を「つくってもらう」のではなく、障害の当事者が主体となって「つくっていく」。この組織の立ち上げと時期を同じくして、2025年から共生社会創成学部という学部を新設しました。

谷氏

山田:障害当事者が主体となって、「共につくる」ことが、企業におけるインクルージョン実装でも重要なポイントだと思います。そのため、筑波技術大学の学生の皆さんのお力が必要だと考え、お声がけさせていただきました。

ここでプロジェクトの背景となる社会的な動きについて振り返ります。まず2024年4月に、障害者差別解消法の改正法が施行されました。大きなポイントが、民間企業に対しても合理的配慮が義務化されたことです。これは、電通はもちろん、電通が取引している企業にも関係がある話で、いろんなところでこの法律に対応するアプローチのあり方を模索する動きがあったんです。

しかしインクルージョンや当事者との共創は、経済合理性の観点から少し距離があるテーマだと思われているところが一部にはまだあり、その動きは十分ではありませんでした。そこに私は強い危機感を覚えました。障害とは特別なことではありません。日本で急速に高齢化が進む中で、障害者も増加するというデータがあります。インクルージョンや当事者との共創は、コミュニケーションとアイデアを生業にする私たちが先頭に立って取り組むべきことであり、社会のためになることはもちろん、より大きな機会創出にもなると考えたのです。

関島:当事者と一緒にビジネスに向き合うことによって、「経済合理性」と「共創」が両立する、それらが両輪で回るような実装モデルをつくりたいと、山田さんからご相談いただいたのが始まりでしたね。

電通からの意外な問い合わせ

山田:企業の課題に応じて、当事者との共創で、ビジネスにインクルージョンを実装する。この話を進めていくに当たって、なかなか理解を得られない葛藤がありましたよね。「経済合理性があるのか」という問いに対しては、マーケット環境の説明が必要です。n=1の話ではなく、ある程度定量的なデータを把握し、これだけの母数があるからマーケット的に価値があるんだ、この取り組みに合理性があるんだと答えられなければなりません。

谷:今の話は興味深くて、私たちが文科省に行って新しい学部をつくるとき、まさに同じ感じでした。つまり、「共生社会をつくるための人材を教育するんです」と説明するのですが、「それって社会のニーズがどれぐらいありますか」と、定量的に示すことが難しい問いを投げかけられました。文科省としては「国立大学の教育内容として国民に対して説明できるか」ということがポイントの1つになるので、その視点を考えながら交渉したのを覚えています。

この学部での教育内容はいいとしても、その後にどのように就職し、どのように活躍していくのか、具体性を示さなくてはならない。私たちとしては、障害に関わる法律はそろってきているが、それを実行する人材を育てる教育が不十分であると感じ、最初に手を挙げて、やろうとしているんですと。「本当に社会にニーズがあって、高校生たち自身もそういう学部で学ぶことを求めているんです」という説明をし続けて、2~3年かかりましたね。

山田:今回の取り組みの大きなポイントが、当事者との共創です。そのため、筑波技術大学の学生の方々とぜひ一緒に取り組みたいと考えたのですが、私たちからの連絡を受けての第一印象は?

谷:びっくりしました(笑)。企業から共生社会に関する問い合わせが来ること自体は珍しくないんですよ。でも電通さんとして、何をしたいのかが想像できなかったので、とても驚きました。普段多いのは、公共性の高い交通機関などからの問い合わせです。「駅や空港内での案内板の掲示方法について、学生と一緒に見せ方を考えたい」みたいな話ですね。もう1つは気象庁のような公的機関で、「津波の際に耳が聞こえない人が逃げ遅れて亡くなるケースがあった。そういう方にどうすれば災害のアラートを出せるか?」といった相談です。

山田:その後、たくさんの先生たちと対話をさせていただいて、「経済合理性と共創が成り立つ社会や企業のモデルをつくりたい」という思いをお伝えし、ようやくスタートできました。木達さんは、関島さんからプロジェクトに誘われたと思いますが、どんな印象でしたか?

木達:私も驚いたというか、意外なお話でしたね。でも、長年アクセシビリティに関わってきた人間として、社会にとって前向きな取り組みに参加できる機会は非常にありがたいと思いました。特に当社の強みであるデジタルアクセシビリティという部分で、何か貢献できたらうれしいなと。

関島:ミツエーリンクスさんにお声がけしたのは、もうテクノロジーの世界って、1社だけで何かできる時代じゃないんですね。それぞれ異なる得意分野がある複数社で、1個のものをつくりあげていくというのがノーマルになりつつあります。そこで、グループ会社同士がつながってつくれるといいなと思い、ご連絡したんです。

ちなみに「共創」という言葉が、今いろんなところで使われていますけど、オリジナリティや専門性を持った人たちが、ただそのままチームを組んだだけだと共創はできないなというのはすごく思っています。

関島氏

山田:同感です。ただ集まって、それぞれがいつもやってきた仕事のやり方である課題を解決しようとしても、成り立たない。あくまでも「そのチームとしての」新しいアプローチをちゃんとつくる必要があるんですよね。

関島:はい。「今までできなかったこと」を一緒に掲げて、新しいアプローチをしていかない限りは、共創は成功しないんだなという感覚は最初からありましたね。

社会貢献を通じて「経済も」回していくことが本来のあり方

山田:「当事者との共創」って、いろいろな企業で取り組み始めてはいるんですが、ある議題について当事者と企業が対話した事実そのものをアピールポイントにして、そのまま終わってしまっているケースが多いんですね。本来はちゃんと一緒になってビジネスになるように、実装して回していくことが、僕らの仕事には求められていると思います。谷先生のところに相談に来る企業は、具体的なビジネス課題をお持ちの方が多いのでしょうか。

谷:2系統ありまして、1つは先ほど話したように、「見えない、聞こえないという課題があったときに、実装するにはどうしたらいいか」という相談です。そしてもう1つは、「社会貢献」のアプローチですね。営利目的ではなく、「社会のために良いことをしたい」という、その2つの流れです。私はどちらも意味があることだと思っていて、それぞれの企業課題に対していろんな対話をしてもらい、学生の成長を促したいなと考えています。

山田:たしかにどちらも重要ですよね。私が考えているのは、やはり経済が回っていく基盤があった方が、社会貢献にしても長く続いていくのではないかということです。

木達:社会貢献が本業と完全に切り離されて論じられることに、個人的には少し抵抗があります。近江商人の言葉で「三方よし」ってありますよね。つまり、「売り手よし、買い手よし、世間よし」と、いわば社会全体への貢献を通じて利益を上げるということですが、私もそうあるべきだとずっと思っています。

ウェブの世界は特にそうです。世界人口の7割近くがインターネットを使っている時代に、さまざまな人がさまざまな方法でウェブアクセスしている現実があります。である以上は、「誰もが使える」ようにデザインするのが当たり前になるべきだと考えます。私の場合はウェブ制作が本業なので、そういう取り組みをしていますが、デジタルだけでなく、あらゆる業種・業界においても、「誰もが使える」のが当たり前になっていくのではないかと。

木達氏

山田:「誰もが使える」ことが、ビジネスとしても、社会貢献としても意味があるということですね。だけど、切り離されて論じられがちであると。

木達:はい。そこで、私がアクセシビリティについてコンサルティングする際は、「守り」と「攻め」という言葉で説明しています。「守り」はまさに法令遵守の話で、日本の法律だけでなく海外の法律でもアクセシビリティは強く求められています。日本企業のグローバル化が進んでいるので、もう取り組んで当然という環境になっています。

一方の「攻め」ですが、アクセシビリティに取り組んだ方がもうかりますよ、という話です。アクセシビリティを高めてユーザーの母数を増やせば、当然最終的なコンバージョンの数も増えますよね。そういう単純なロジックでいつも説明させていただいています。ただ、じゃあどのぐらいもうかったのか、数字で証明できていないのは現状の課題ですね。

山田:目に見えるデータが足りていないということですよね。関島さんも、社内での交渉に苦労されていました。

関島:ちょっと話がズレてしまうかもしれないですが、やはり「自分ゴト」にならない限り、なかなか分かってもらえないですよね。自分の家族の課題とか、インクルージョンに直結する悩みは多いと思うんですよ。だけどそれが「その人の困りゴト」でしかなく、閉じてしまっている。本当はふたを開けてみたら社内に困っている人がたくさんいるとしても、そこを決断する立場の人に経験がないと止まってしまうんですね。

人口減や多様化が進む中で、社会も企業も止まってしまう地点を1歩飛び越えていかなきゃいけないタイミングに来ています。大きい企業が取り組んで、人もお金も動いて、インパクトのあることができるのが理想です。うまく実装できた事例をつくり、それを起点にしてどんどん社会に広めていきたいですよね。

私自身技術に触れるなかで「この技術を使えばすごくいろんな人が幸せになるんじゃないか」というものはあります。だけど、企業ではそれを自分たちのビジネス領域やビジネス規模で考えたときに「やらなくていいんじゃない」という判断がなされることが多いんですよ。

山田:だからこそ、ある程度の総量を把握できるデータ基盤やプラットフォームが必要なんですよね。その開発に当たっては、電通に投資してもらえないか相談したのですが、ただ「投資してほしい」ではなかなか難しい。「いろいろなクライアントと実装の経験値を積み重ねていって、最終的に必要な仕組みのあり方を見つけていきます」という言い方をしたら、話が進み始めましたね。「1つ1つのプロジェクトの先に、最終的な仕組み化の話があるんです」というアプローチだと合意形成ができたのは学びになりました。

関島:一緒にやってくれるクライアントを探して何十社も回りつつ、「いくつかの実績を挙げながら、それを起点に広げていき、最終的に1つのプラットフォームをつくる構想を持っています」と社内では説明してきましたね。

インクルージョンで障害のある人も、そうでない人も生きやすい社会に

山田:学生の皆さんはこうした企業との共創や、インクルーシブな社会に対してどういった思いを持っているのでしょうか。

谷:障害者への教育には「手に職」という考えがあって、視覚障害なら鍼灸(しんきゅう)、聴覚障害なら歯科技工や工芸などですね。つまり広く教養を身に付け、専門性を高めるために大学に行くということを重視しない教育設計になっていました。

本当は「手に職」だけじゃない、いろんな道があってもいいんじゃないかという、当たり前の環境になってほしいんです。自分が得た知識や発信力をもって世の中を変えていく仕事に就けるんだという気持ちに変わっていくといいなと思います。

山田:当事者との共創といったときに、学生が企業にどういう関わり方ができるのか、谷先生はどういうイメージをお持ちですか?

谷:一緒につくるに当たっては、まずは関わる人たちが自ら障壁を取り除くことが大切だと思います。障害を考えるときに「医学モデルと社会モデル」というものがあり、耳が物理的に聞こえないというのは医学モデルです。一方、社会モデルとは、聞こえない人に対して仕事を制限したり、免許を制限したりするのは、社会の側がやっていることだという考え方ですね。障害者の側に問題があるわけではないのだから、その障壁は社会の側が下げるべきなんです。社会モデルの考え方は、今だいぶ浸透してきていますね。

山田:その部分は、われわれ電通グループが担うべき部分もたくさんあると思います。社会から障壁を取り除くためにも、まず当事者との接点が必要という部分もありますよね。

山田氏

木達:ウェブに限っていうと、あるガイドラインにのっとってつくることで、ある程度障害者の方も使いやすいウェブサイトやデジタルコンテンツにすることはできるんです。ただ、やはり最終的には実際に障害者の方に使ってもらわないと分からないこともあります。

関島:障害もすごく多様ですから、全部をカバーするのは難しいですよね。私が1つ考えているのが、企業がユーザーごとにいろんなものをつくるというより、ユーザーが自分でカスタマイズできるような「大元の何か」をつくることで、いろんな障害者にとって使いやすい形になるのかなということです。

山田:なるほど、いずれにせよ当事者の方との接点を持つことがまずは第一歩になりますね。

関島:以前、障害者の方と会食する機会があって、帰りの電車が耳が不自由な方と一緒だったんですよ。どうやって過ごそうかと思ったら、普通に会話できるんですよね。その方の努力もあるし、口の動きを読み取るツールもあって。その上で分からないときは分からないって言ってくださるから、コミュニケーションができる。1回そういう経験をすると、他の方と会ったときにも、「どういうふうにやり取りすればいいですか?」って普通に聞けたりするので、やっぱり実際に接点を持つことが大事だなと。

今回、電通総研のUXデザインセンターに参画してもらっているんですが、まさにいろんな部署と連携して利用者視点でのUIやUXを実現していく部署なんですね。彼らにプロジェクトに入ってもらうことで、物事のとらえ方や考え方にも新たな気づきがあり、チーム全体の意識も変わっていくと思います。また、他社や他部署がこんな取り組みをしているんだとお互いに知り合うことで、視点が変わってきますよね。

山田:その上で、インクルージョンは弱者救済ではなく、企業の成長にもコミットするテーマなんだということを、広めていきたいと考えています。

谷:障害のある人が豊かに暮らせるということは、当然ながら障害のない人だって豊かに暮らせる環境なんですよね。それに、私たちだって誰だって年齢を重ねれば、見えなくなって聞こえなくなるわけです。元から障害のあった方は訓練されているから平気なことでも、あるとき老化で見えない・聞こえないとなると、とても孤独になるんです。そういう人が救われる、そういう人をなくすことを最終的には目指していきたいですね。

私は耳が聞こえますが、最初にこの大学に来て、聴覚障害者向けの授業を見たんです。これが手話を使わない私にとっても、すごく分かりやすかったんですよ。まず板書をしっかり書きます。適当に書かないんですね。その上で、振り返ってしっかり前を向いて手話を使って話すんです。その授業は、聞こえる人から見ても、取ったノートを後から見たいというくらい良い授業になっている。それこそが目指すべきあり方かなと。

関島:「みんなが共通で楽になることって何なの?」と考えると、今の社会のいろんな局面をDXしていけると思うんですよ。例えばお役所ではいちいち書類を手書きしなきゃいけなくて、高齢者の方などにはすごく大変ですが、最初に1枚書くだけで以後はそれを全部デジタルで読み取って処理されるようになれば、役所に行くたびに何枚も似た書類を書くということをしなくて済むようになる。これって耳や目が不自由な方にも、そうでない方にとってもすごく役立つじゃないですか。

木達:ウェブの世界ではSEO(検索エンジン最適化)がとても重視されてきました。そんな中で私が申し上げてきたのが、「障害者にとって使いやすくすることは、検索エンジン対策にもなるんですよ」ということです。検索エンジンって「目」で情報を取っているわけじゃなくて、サイト上にあるデータをソフトウエアが機械的に処理して意味を読み取っているわけです。それって視覚障害者の方が使うスクリーンリーダーにどうやってうまく情報を読み込ませるかという話と、技術的には極めて近いことをやっているんですね。

山田:弱者救済ではなく、「みんな」にとって良いことを当事者と一緒に共創し、ビジネスとしても回っていくようになる。そんなモデルをクライアントと共に模索し、そこから得られたデータを元に、インクルージョンの経済的価値を測定できるプラットフォームを、最終的には目指していけたらと思います。

次回からは実際にクライアントと共に取り組んでいる事例も紹介していきます。本日は皆さん、ありがとうございました!

座談会の様子
・dentsu JapanのDEIサイトはこちら
https://www.japan.dentsu.com/jp/deandi/
 
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AIがECを飲み込む?OpenAIとグーグルが仕掛ける「AIショッピング」の衝撃

●この記事のポイント
・OpenAIとグーグルが同時期に発表したAIショッピング機能は、検索から決済までをAI上で完結させ、ECの構造を揺るがす。
・世界のEC市場は数兆ドル規模に拡大中で、AI経由の無摩擦購買が普及すればAmazonや楽天の既存モデルに大きな脅威となる。
・一方で無意識決済や補償責任、個人情報漏洩といったリスクもあり、規制と信頼性確保が普及のカギとなる。

 9月29日と30日、OpenAIとグーグルがほぼ同時期に発表した新機能が世界のテクノロジー・EC業界に大きな衝撃を与えている。

 OpenAIは生成AI「ChatGPT」上で、Googleは「AIモード」上で、商品検索から購入・決済までを直接行える仕組みを提供開始した。これまでAIはあくまで「情報検索」や「会話支援」にとどまっていたが、ついに消費者の財布の紐を握る領域に踏み込んだことになる。

 特にOpenAIが打ち出したのは「Agentic Commerce Protocol(ACP)」と呼ばれる仕組みだ。オープンソースとして公開され、販売事業者が自社の商品データを接続すれば、ChatGPT上で即座に販売が可能となる。言い換えれば「Amazonに出店する」のではなく、「ChatGPTの会話空間そのものを店頭にする」ことができるのだ。

世界のEC市場:27兆ドル規模に迫る巨大産業

 AIによるショッピング機能が注目される背景には、世界のEC市場の巨大さがある。国際調査会社eMarketerによれば、2024年の世界EC市場規模は約6.3兆ドル(約950兆円)に達しており、2027年には8兆ドル(約1200兆円)を超える見込みとされている。

 一方、日本国内のEC市場は経済産業省の推計によると約13兆円規模。特に物販分野の伸びが著しく、コロナ禍以降、日用品から高級品まで幅広い領域でオンライン化が進んだ。

 この巨大な市場において、アマゾンや楽天が長年にわたり圧倒的なシェアを握ってきたが、AIプラットフォームが直接「購入」の入口になることで、購買行動の起点そのものが変わる可能性が出てきた。

 アマゾン・楽天モデルとAIショッピングの決定的な違いについて、ITジャーナリストの小平貴裕氏は次のように説明する。

「従来のECモール型ビジネスは、出店料や販売手数料によって成り立っています。たとえばアマゾンの場合、販売手数料はカテゴリにより8〜15%程度、加えて物流サービス『FBA』を利用すれば、さらに数%の手数料が上乗せされます。楽天市場も月額出店料やシステム利用料が必要です。

 これに対し、OpenAIやグーグルが提供する仕組みでは、販売事業者はシステムを接続するだけで商品販売が可能で、基本的に手数料は発生しません。さらに消費者は『ChatGPTに相談 → 提案を受ける → そのまま購入確定』という自然な会話の流れで決済に至ることができます」

 AIを介した購買行動は、「検索」「比較」「カートに入れる」といった複雑なプロセスを飛び越え、1ステップで完結する可能性を秘めている。これが既存ECにとって最大の脅威となる。

AIエージェントによる“無摩擦”な購買体験

 近年注目されているのは「AIエージェント」がユーザーの代わりに商品を検索し、比較し、最適解を提示するという形態だ。

「たとえば『旅行に行きたい』とChatGPTに入力すれば、宿泊先や航空券の候補が提示され、そのまま予約・決済まで完了できます。これが『Agentic Commerce』の世界観です。

 消費者にとっては、従来のように複数のサイトを横断して検索する手間が省けるわけです。販売事業者にとっては、広告費をかけてSEOやECモール内ランキングを上げる必要がなく、AIプラットフォーム内で商品が『最適』と判断されれば自然に購入につながります」(小平氏)

 米調査会社ガートナーは「2026年までにオンライン購買の30%がAIエージェント経由で行われる」と予測している。もしこれが現実になれば、数兆ドル規模の市場シェアが再編されることになる。

 すでにAI検索エンジン「Perplexity」もショッピング機能を導入しているが、OpenAIのACPは一歩進んでいる。

 Perplexityはあくまで外部ECサイトとリンクする形だが、ChatGPTは会話空間そのものを購買プロセスに変える。さらにオープンソースプロトコルによって販売者が「勝手に」接続できるため、エコシステムの広がりは格段に大きい。

 言い換えれば「インターネットに商品ページを置くだけで、自動的にChatGPTが販売の窓口になってしまう」世界が来るということだ。

 一方で、課題も多い。

・無意識決済のリスク
 会話の流れで「じゃあそれ買う」と入力すれば即時決済される仕組みは、消費者保護の観点からリスクが高い。誤クリックや誤入力でも購入が成立してしまう可能性がある。

・補償・返品の責任問題
 既存のECでは出店者やプラットフォームの規約に基づき返品や補償が整備されているが、AI経由の購入では「AIの提案ミス」の責任が誰にあるのかが不透明だ。

・決済情報・個人情報の漏洩リスク
 AIサービスが購買履歴や決済情報を保持する以上、情報漏洩のリスクも高まる。特にLLMの学習データに誤って組み込まれるリスクは技術的課題として指摘されている。

 これらを克服するためには、規制やガイドラインの整備が不可欠だろう。

既存ECの対抗策と展望

 ではアマゾンや楽天はどう動くのか。

「アマゾンはすでに自社生成AI『Amazon Q』を強化しており、検索から購入までの体験をAI主導に変えつつあります。楽天も独自の生成AI活用を打ち出し、会員基盤と楽天経済圏を活かしてユーザーを囲い込みにかかっています。

 しかし、消費者が『最初にアクセスするのはAI』という習慣を身につければ、AIプラットフォームに主導権が移るのは避けられません。

 特に日本市場は『楽天経済圏』と『Amazon依存』が二大柱ですが、AIが“中立の購買窓口”として普及すれば、消費者はモールを意識せず、AIが最適と判断した商品を購入するようになるでしょう」

 AIによるショッピングは単なる新機能ではなく、ECのパラダイムを根本から変える可能性を秘めている。

 従来は「検索エンジン → ECサイト → 決済」という流れだったのが、これからは「AIとの会話 → 直決済」となる。

 このシフトが進めば、「検索エンジンが世界の入口」だった時代のように、「AIが購買の入口」を独占する時代が到来する。

 ただし、普及の速度は「安心感」と「規制」に大きく依存する。補償やセキュリティが整備されなければ、消費者は既存ECに留まる可能性も高い。

 いずれにせよ、AIによる“無摩擦購買”はもはや不可逆的な潮流であり、世界のEC事業者は対応を迫られることになる。

 AIがECを飲み込むのか、それとも既存ECがAIを取り込み共存するのかーー。市場規模はすでに数兆ドル単位に上る。OpenAIとグーグルが仕掛けた「AIショッピング」は、テクノロジー業界の収益化フェーズ突入を告げる象徴的な一手だ。

 この動きが本格化すれば、私たちが「どこで買うか」ではなく、「どのAIに任せるか」を選ぶ時代が、すぐそこに来ている。

(文=BUSINESS JOURNAL編集部、小平貴裕氏/ITジャーナリスト)

ZOZO色を隠したら読者が激増…オウンドメディア『fashion tech news』成功の裏側

●この記事のポイント
・ZOZO NEXTが運営する「fashion tech news」は研究者目線からユーザー目線へ転換し、PV300%増を達成。
・自社色を出さず中立性を重視、業界全体を深掘りする姿勢が読者拡大と事業推進の好循環を生む。
・将来的には「ファッション×テクノロジー」で第一想起されるメディアを目指し、ファン基盤拡大へ挑む。

 ファッションとテクノロジーを掛け合わせた専門メディア「fashion tech news」が、急速に存在感を高めている。2018年に立ち上がった当初は、研究成果をアカデミックに紹介する色合いが強かったが、現在はPV数・UU数ともに大幅に伸び、ファッションとテクノロジーの情報を深掘りする媒体として高い評価を得ている。運営するのはZOZOグループで研究開発を担うZOZO NEXTだ。

 編集長の玉井泰史氏に、その変遷と成長の理由、そしてオウンドメディアの役割について伺った。

●目次

研究者目線からユーザー目線へ

「fashion tech news」のスタートは、ZOZO NEXTの研究成果を紹介する、いわば“論文寄り”の内容だった。

「当初は研究者向けの記事が中心で、一般ユーザーには少し距離のある内容でした」と玉井氏は振り返る。

 しかし、同氏が編集に携わるようになってから大きな方針転換を行った。例えば、素材の研究成果を単に伝えるのではなく、「その素材が実際のプロダクトに使われ、生活にどのように役立つか」という視点を盛り込むようにしたのだ。この変化がユーザー層の拡大を後押しし、現在では、UU数は前年比130%、PV数は300%という成長を記録した。

 編集部は紙媒体出身の編集者、ウェブ媒体出身者、そして編集とは関係のないキャリアを歩んできたZOZO NEXTの社員など多様なバックグラウンドを持つメンバーで構成されている。記事の企画は各メンバーが持ち寄り、最終的に玉井氏が判断する。

「私たちの軸は、ファッションとテクノロジーです。特に“素材”や“機能性”にフォーカスし、深掘りすることを重視しています。単に新商品を紹介するのではなく、裏にある技術や歴史、カルチャーまで含めて取材しています」

 夏に人気が高まる日傘の技術進化や、ブランドの歴史を遡って現在のプロダクトにどうつながっているかといった記事が好評だという。

 現在の読者層は20代後半から40代前半、特に30代半ばの男性が多い。ファッション業界関係者に加え、IT業界の読者も多く、ファッションとテクノロジーという領域横断的なテーマが刺さっていることが分かる。

 当初は研究者向けだった読者像が、一般ユーザーや業界関係者へと広がったことで、メディアとしての存在感も増していった。

あえてZOZO色を出さない理由

「fashion tech news」の特徴のひとつが、グループ会社のZOZOや運営元のZOZO NEXTの名前を前面に出さないことだ。ZOZOTOWNへのリンクも基本的には張られていない。

「オウンドメディアは自社の宣伝色が強くなりがちですが、それだと自社製品に興味がない人には読まれません。だからこそ、業界全体の情報を中立的に扱うことを重視しています。その結果、自社の研究開発プロジェクトが自然と認知され、他企業や自治体とのコラボレーションにもつながっているんです」

 この姿勢により、ZOZO NEXTのR&D(研究開発)活動を知るきっかけが生まれ、結果的に事業推進の後押しにもなっている。

 一般的なファッションメディアがリリース情報やストレートニュースを扱うのに対し、「fashion tech news」は素材やブランド史を徹底的に掘り下げるインタビュー記事が中心である。開発者やプロジェクト責任者に直接取材する姿勢も大きな特徴だ。

「素材だけで一本の記事を書くこともありますし、ブランドの創業者の写真や歴史的資料まで紹介することもあります。そこまでやるのが私たちの強みです」

 メディアの成長をさらに支えるのが、ユーザーとの距離の近さだ。記事に対して「参考になった」「おもしろい」などのリアクション機能を導入したほか、読者からのリクエストを受けて取材先にアプローチする試みも始めている。

 また、会員限定イベントを開催し、リアルな交流の場も設けている。こうした取り組みが読者のファン化を進め、コミュニティ的な広がりを生んでいる。

マネタイズより「研究開発の一環」として

 広告収益やスポンサーシップによるマネタイズは現在考えていないという。あくまでR&D活動の一環として運営し、研究成果や業界の最新動向を広く伝えることが主目的だ。

 結果として、記事がきっかけでブランドとのコラボが実現したり、新たな共同研究につながったりと、副次的な効果が生まれている。

 玉井氏が描くビジョンは明快だ。

「ファッションメディアとテクノロジーといえば『fashion tech news』と第一想起される第一媒体になること。そこに向けて、単なる読者数の増加ではなく、ファンを増やしていくことを重視していきたいと思っています」

 SNSでの発信強化や会員基盤の拡大を進め、専門性とユーザー目線を両立することで、業界内外にインパクトを与えるメディアへ成長していく構えだ。

「fashion tech news」の成功は、オウンドメディアが「宣伝ツール」にとどまらず、業界全体を巻き込むプラットフォームになり得ることを示している。

 研究者目線からユーザー目線への転換、中立性を保ちながら深掘りする姿勢、ユーザーとの双方向的な関わり。これらの要素が噛み合うことで、PVやUUの成長だけでなく、ZOZO NEXTの研究活動そのものを推進する「良い循環」が生まれているのだ。

 ファッション業界に限らず、オウンドメディアを運営する企業にとって学べる点は多いだろう。

「ユーザーにとって価値のある情報を中立的に届ける」ことこそが、長期的なブランド認知や事業推進につながる。そのことを「fashion tech news」の成長は雄弁に語っている。

(文=BUSINESS JOURNAL編集部)

OpenAI「GDPval」の衝撃…学術評価はもう古い?AIの実務能力を測る新指標

●この記事のポイント
・新指標「GDPval」は、AIの実務能力を数値化し、企業のROIや生産性向上を測るものとして注目を集めている。
・PC上の知的作業に限定され、暗黙知や現場業務を評価できないなど、適用範囲の狭さやネーミングへの批判もある。
・それでも数兆円規模の経済効果を生む可能性があり、今後は政策判断や国際比較に活用される期待も高まっている。

 人工知能(AI)の評価方法に新たな潮流が生まれている。OpenAIがAIモデルの能力を「現実世界の経済的に価値のあるタスク」に基づいて評価するための新しいベンチマークとして、「GDPval」を提唱した(指標)のだ。従来のベンチマークが学術的な問題集を解く能力を競うものだったのに対し、「GDPval」は日常の実務をどれだけ効率化できるかを数値化しようとする。企業の投資判断に直結する現実性と、経済への波及効果が注目される一方で、その適用範囲の限定性やネーミングの誤解も指摘される。専門家の考察と共にAIの未来を占う新しい“ものさし”の可能性と限界を探る。

●目次

なぜ「GDPval」が必要とされたのか

 これまでAIの性能評価には、大学受験の過去問や百科事典的な知識を問う「MMLU」や、大規模問題集「BIG-bench」といった指標が用いられてきた。しかしこれらは研究者向けには有効でも、企業経営者や実務担当者にとっては「実際に業務でどれほど役立つのか」がわかりにくかった。

 経営学の立場からみれば、AI導入で最も知りたいのは投資対効果(ROI)である。実際にある経営学者は、「GDPvalは、AIが実務にどれほど効率化をもたらすのかを数値化する点で画期的です。従来の学力試験型ベンチマークに比べ、経営判断に直結する情報を提供し得ます」と評価する。

「GDPval」の特徴と方法論

 GDPvalは、PC上で行われる知的作業に焦点を当てている。文書作成、データ整理、企画立案、メール要約など、多くのホワイトカラー業務に共通するタスクを抽出し、AIが人間に代わってどの程度こなせるかを評価する。

 評価手法は単なる正誤判定ではない。人間のアウトプットとの比較、作業時間の短縮率、成果物の品質評価など多面的に測る。「現場の業務削減効果に非常に近い数値を出せる点がユニークです。これは私たちコンサルがクライアントに示す“業務効率化のシミュレーション”に近い感覚を与えます」(戦略コンサルタント・高野輝氏)。

 企業側からすれば、AI導入の成否は“体感”ではなく“数字”で示す必要がある。GDPvalはまさにそのための橋渡しを担う。

「労働生産性の一部をAIが肩代わりすることを明確に可視化できる。マクロ経済学的にも大きな意味を持ちます」(同)

 加えて、指標のわかりやすさも強みだ。たとえば「文書作成をAIに任せると、従来の人間作業の40%の時間で同等以上の品質が得られる」といった形で可視化されれば、経営者は投資効果を直感的に理解できる。

課題と批判

 しかしGDPvalは万能ではない。まず、対象が「PC上の知的作業」に限られている点が大きな制約だ。

「現場での意思決定や、顧客との交渉、身体性を伴う医療行為など、暗黙知や人間特有の感覚が絡む業務は数値化できません。GDPvalはあくまで一部のホワイトカラー業務を対象とした指標です」(同)

 さらに、一部の経済評論家からは、「GDP」という名称そのものが誤解を招くとの指摘もある。

「実際に、国内総生産(GDP)という言葉は経済全体を想起させますが、GDPvalがカバーするのはごく一部で、名称が過大な期待を誘発するリスクは否めないとの声が少なからずあります」(同)

経済へのインパクト

 それでも影響は小さくない。ホワイトカラー業務の省力化は、数兆円単位の経済効果を生む可能性がある。AIに業務を委ねた分、人材をより創造的な仕事に再配置できれば、新規価値の創出にもつながる。

「GDPvalの意義は、マクロ経済における労働投入量の再配分を具体的に示す点にあります。部分的であっても、このような効果測定は政策決定に直結し得るのです」(同)

 今後はマルチモーダルAIの進化によって、テキスト業務以外への適用が拡大するだろう。画像や音声、さらには実際の機器操作を含む業務にまで評価対象が広がれば、GDPvalはより包括的な指標へ進化する可能性がある。

「次のステップは“操作”や“身体性”を含む領域です。たとえば医療現場の支援や製造工程の管理をAIが担えるようになれば、GDPvalも拡張されるはずです」(同)

 一方で、国際的に統一された評価基準となれば、各国のAI導入度を比較する材料ともなる。国ごとのAI活用度をGDPvalで測定できるようになれば、国際競争力の議論に直結する可能性もある。

「GDPval」は、AI評価の歴史を塗り替える可能性を秘めた指標だ。学術的な問題集を解く力から、実務に役立つ力へ──評価軸が変わることで、企業経営や政策判断に直結する新しい基準が生まれた。

 しかし同時に、それは経済全体を測るものではなく、あくまで限定された領域の“実務力”を数値化するに過ぎない。過度な期待を避けつつ、この指標をどう活用するかが問われている。

 経営者やビジネスパーソンにとって、GDPvalはAI活用の“羅針盤”となるかもしれない。だがその針が指し示すのは、まだ経済全体の一部にすぎないことを忘れてはならない。

(文=BUSINESS JOURNAL編集部、協力=高野輝/戦略コンサルタント)

自民党新総裁・高市早苗の排外デマ体質を検証!「外国人のシカ暴行」演説の元を書いたのは安倍首相のスピーチライターだった日本会議会長

 本日投開票の自民党総裁選で、前経済安全保障担当相の高市早苗氏が新総裁に選出された。15日におこなわれる見通しの首班指名選挙を経て、高市氏が第104代首相に指名されるとみられる。  メディアはさっそく「日本史上初の女性首相誕生」と大々的に報じているが、戦前の家父長制的家族...

“天気予報”を超越、気象情報がインフラに…「デジタルアメダス」で気象庁が大変貌

●この記事のポイント
・気象庁が提供する「デジタルアメダス」は、全国を1km四方でカバーする面的気象情報で、従来の“点の観測”を超えた社会基盤へ進化している。
・北海道での実証では農業の追肥判断や水産養殖の水温管理などに活用が始まり、一次産業から幅広いビジネスへの波及が期待されている。
・気象庁は産学官連携やAI活用を視野に、災害対策から物流・エネルギーまで社会全体の意思決定を支える存在へ変貌を遂げようとしている。

 気象庁が新たに打ち出した「デジタルアメダス」の取り組みが注目を集めている。従来のアメダスは全国に約17km間隔で設置された観測所の“点”の情報だったが、新たな仕組みでは気象衛星「ひまわり」や気象レーダーなどの観測成果を組み合わせ、1km四方(積雪・降雪は5km)の格子で解析した「面的気象情報」を提供する。

 つまり、日本列島全体を隙間なくカバーし、知りたい地点の気象状況をピンポイントで把握できるのだ。

 気象庁に狙いを聞くと、担当者はこう説明する。

「アメダスのような点の情報に比べ、面的気象情報は気象状況の分布を視覚的に把握できる利点があります。これまで近傍の観測所データを参照するしかなかったケースでも、知りたい地点の気象データを直接取得できるようになります。私たちはこの活用を『デジタルアメダス』と称し、デジタル社会の基盤的データとして様々な分野での活用を目指しています」

“点から面へ”の進化は、気象データを社会のインフラへと押し上げる大きな一歩といえる。

●目次

一次産業で進む利用実証

 デジタルアメダスの利活用は、まず農業や水産業といった一次産業から始まっている。

 担当者はこう語る。

「農業や水産業など多くの社会・経済活動が気象の影響を受けています。デジタルアメダスを活用すれば、全国の任意地点の気象状況を具体的な数値で把握でき、今後の活動の参考にしていただけます」

 実際、北海道では2023年度から関係機関の協力を得て「デジタルアメダスアプリ」の開発を進めている。

「農業分野では追肥の判断に降水量データを確認するといった利用が、水産業では養殖の管理に水温を監視するといった活用が報告されています」

 農業における肥料の追加判断は、収量や品質に直結する重要な作業だ。過剰な施肥はコスト増や環境負荷を招き、不足すれば生育に悪影響を及ぼす。降水量データをもとに判断できれば、農家は科学的な根拠をもって意思決定できる。

 また、養殖業では水温の変化が魚の健康状態を大きく左右する。従来よりも細やかに水温を把握できれば、疾病リスクの軽減や死滅防止につながる。

 一次産業におけるこうした事例は、デジタルアメダスの実用性を裏付けるものとなっている。

民間との協創を進めるWXBC

 気象庁は、民間の力を引き出す仕組みとして2017年に設立された「気象ビジネス推進コンソーシアム(WXBC)」を支援している。

「WXBCは、産業界における気象データの利活用を一層推進することを目的に設立されました。気象データをビジネスに活用できる人材育成や、先進的なビジネスモデル構築のためのワーキンググループを設置しています」

 また、会員外も参加できる「気象ビジネスフォーラム」や「気象データのビジネス活用セミナー」を開催し、事例紹介や展望を共有しているという。

「気象庁はWXBCや各WGの活動を事務局として支援し、人材育成や企業間の交流機会を提供することで、市場拡大を図っています」

 気象庁が直接ビジネスに関与するのではなく、土台を提供し民間企業が主役となる――このスタンスが特徴だ。

今後の展開とAIの役割

 デジタルアメダスの今後についても展望を聞いた。

「情報通信技術の急速な進展を踏まえ、今後も民間気象サービスと協調しつつ、面的気象情報を基盤としたサービスの高度化を進めていきます。AI技術の活用も含めた技術開発を進め、気象庁クラウドを通じて様々な分野で利用可能とする計画です。さらにWXBCとの連携など産学官協力を強化し、民間サービスの高度化を推進します」

 現時点ではAIは導入されていないが、今後の展開では重要な役割を担うと見られる。

「現在のデジタルアメダスではAIを活用していませんが、今後は面的気象情報の拡充や利用においてAI活用を念頭に取り組んでいく予定です」

 AIが加われば、データの解析精度や予測能力は飛躍的に高まる可能性がある。局地的豪雨や突発的気象現象の高精度な予測、自動化された農業・水産業支援など、新たな応用の扉が開かれるだろう。

広がる社会的インパクト

 デジタルアメダスが社会に普及すれば、その影響は一次産業にとどまらない。

 ・災害リスクの軽減:面的データで豪雨や大雪の広がりを迅速に把握し、避難勧告や事業継続判断に活用できる。
 ・サプライチェーン管理:製造・物流企業が天候リスクを事前に織り込み、在庫や輸送計画を最適化できる。
 ・脱炭素社会の推進:再生可能エネルギーの発電量予測精度を高め、需給調整を効率化できる。
 ・日常生活の利便性:イベント開催や観光、外出計画などにも応用可能で、生活者にとっても恩恵が広がる。

 まさに「気象データが社会基盤となる」時代が到来しつつある。印象的だったのは、気象庁が「データの提供者」であり続け、ビジネス創出はあくまで民間に委ねている点だ。その姿勢は「天気を伝える組織」から「社会の意思決定を支える基盤提供者」へと役割を広げているように映る。

 今後、企業が問われるのは、この基盤をどう生かすかだ。小売業は購買予測に、保険業はリスク評価に、建設業は作業計画に。応用次第で競争力を大きく左右する。

 気象庁の「デジタルアメダス」は、点から面へと進化した気象データの象徴であり、社会・経済活動に広く影響を与える可能性を秘めている。

 同庁が描くのは「産学官が協力し、気象データを社会インフラへと昇華させる未来」であることが見えてきた。

 今後、AIやクラウド、民間企業の創意工夫が加われば、気象情報は単なる“天気予報”を超え、社会の新しい羅針盤となるだろう。

(文=BUSINESS JOURNAL編集部)

「窓で発電」で都市が変わる…YKK APだからこそできる建材一体型太陽光

●この記事のポイント
・YKK APが「窓で発電」する建材一体型太陽光の実装検証を開始。都市部の再エネ拡大に新たな解を提示。
・内窓にフィルム型ペロブスカイト太陽電池を組み込み、断熱と発電を両立。景観や施工性の課題にも対応。
・都市のビル群を「発電所化」する構想。災害時のレジリエンス向上や脱炭素経営への貢献を目指す。

 2050年カーボンニュートラルの実現に向け、日本各地で再生可能エネルギーの導入が進んでいる。しかし、都市部では「設置スペースが限られる」という根本的な課題が立ちはだかる。大規模な太陽光発電設備を設置する余地は乏しく、都市における再エネ拡大は新しい発想を必要としている。

 窓・建材メーカーのYKK APは、その解のひとつとして「窓を発電体に変える」建材一体型太陽光発電(BIPV:Building Integrated Photovoltaics)に取り組んでいる。同社は東京都港湾局・東芝エネルギーシステムズ・関電工・東京テレポートセンターとの5者による協定に基づき、東京・お台場のテレコムセンタービルにて実装検証を開始した。

 今回、新規事業開拓部長の中谷卓也氏に、開発の背景や狙い、社会的意義について聞いた。

●目次

建材メーカーが太陽光に挑む理由

――なぜ窓メーカーが太陽光に取り組むのか。

「私たちはこれまで、断熱性能の高い窓やドアを提供することで快適な住環境づくりに貢献してきました。その延長線上に、窓そのものを発電体にするという新しい価値を見いだしたのです。東京都が掲げる再エネ導入拡大目標に対し、建材メーカーとして貢献できる可能性があると考えました」(中谷氏)

 YKK APは、すでに千代田区や札幌市で実証実験を重ね、羽田イノベーションシティでは実証実験ラボを開設している。今回のテレコムセンタービルでの取り組みは、都市型BIPVの本格的な実装検証として位置づけられている。

 同社が今回の実装検証で注力するのは、軽量で柔軟性のある「フィルム型ペロブスカイト太陽電池」だ。特筆すべきは、その設置方式である。

「屋外の外窓ではなく、室内側に取り付ける“内窓”に太陽電池を組み込む方式を採用しました。これにより、施工が容易になり、足場を組む必要がありません。さらに、風雨にさらされないため耐久性が向上します。加えて断熱性能も高まるため、“発電と省エネの両立”という二重の価値を提供できます」(中谷氏)

 外観に大きな変化を与えない点も重要だ。都市の景観を損なうことなく、既存ビルに発電機能を付加できる。

都市特有の環境を活かす可能性

 札幌での実証実験では、屋根に設置された従来型パネルが雪で覆われ発電不能になった一方、壁面の発電体は反射光を活用して一定の発電を続けた。

「雪や隣接ビルからの反射光によって発電できることが確認できました。北向きの窓でも発電の可能性があることは、都市環境に適した新たな知見だと考えています」(中谷氏)

 都市部では「高層ビルが立ち並び日照が限られる」というネガティブ要因があるが、反射光というポジティブ要素を取り込む発想は注目に値する。

――普及した場合、社会や利用者にどのような利益をもたらすのか。

「第一に、都市部における再エネ導入の拡大です。地産地消の電力供給が可能になり、災害時の自立電源としても役立ちます。また、ビル所有者にとっては光熱費削減や環境配慮型不動産としての付加価値向上につながります。テナント企業にとっても、カーボンフットプリント削減に寄与できるでしょう」(中谷氏)

 BIPVの導入は単なるコスト削減策にとどまらず、ESG経営や脱炭素経営を推進する企業にとって戦略的な意味を持つ。

 一方で、課題は少なくない。ペロブスカイト太陽電池は、量産化技術や長期耐久性がまだ確立途上にある。

「太陽電池そのものの性能や耐久性の確立には時間がかかります。私たちの役割は、そうした新素材をいかに建材として実装するか、という点にあります。ガラスやサッシの知見を活かし、安全性や法規適合性を確保しながら市場に届ける。それが建材メーカーとしての使命です」(中谷氏)

 普及に向けてはコストも大きな壁となるが、YKK APは「発電+断熱・防音効果による快適性向上」を複合的な価値提案として訴求していく考えだ。

――今後の展望について伺いたい。

「今回のテレコムセンタービルでの検証は、既存ビルへの適用方法を示すモデルケースとなります。今後は都市のビル群全体を視野に入れ、エネルギーを生み出す“都市の発電所化”を実現していきたい。YKK APは太陽電池メーカーではなく、“BIPVメーカー”として社会に貢献することを目指します」(中谷氏)

 都市の再エネ拡大には、「限られた空間をどう使うか」という発想の転換が不可欠だ。「窓で発電」するというYKK APの挑戦は、その解を提示しようとしている。

(文=BUSINESS JOURNAL編集部)

“ステマ”は小泉進次郎だけじゃない 自民党が十数年、組織ぐるみでやってきた卑劣な“ステマ”野党攻撃と情報操作の手口を検証

 ついに明日、投開票がおこなわれる自民党総裁選。候補者が揃いも揃って排外主義の広がりに待ったをかけるでもなく外国人に対する規制強化を打ち出し、とりわけ高市早苗氏にいたっては根拠を示すことなく“外国人が奈良の鹿を蹴り上げる”などと主張。外国人ヘイトで支持を得ようとする醜悪な選...

赤羽、せんべろの街が“住みたい街”に変貌…「まるで吉祥寺」専門家が指摘するわけ

●この記事のポイント
・飲み屋街の印象が強い東京・赤羽だが、近年は人口増と住宅価格の上昇で人気エリア化している。
・専門家は交通利便性や生活のしやすさに加え、再開発や多様な世代の共存が人気を後押しと指摘。
・一方で地価上昇に伴う課題や住環境の変化もあり、赤羽の住宅事情は新たな局面を迎えている。

 東京・北区の赤羽と聞けば、まず思い浮かべるのは「せんべろ酒場が集まる街」というイメージかもしれない。駅前の飲み屋街はテレビ番組でもたびたび取り上げられ、“サラリーマンの聖地”と称されてきた。

 だがここ数年、その赤羽が「住みたい街」として注目を浴び、住宅価格も大きく上昇している。なぜ“飲み屋の街”が、今やファミリー層をも惹きつける住宅地に変貌したのか。住宅評論家の櫻井幸雄氏に話を聞いた。

●目次

10年ほど前からじわじわと人気上昇

 櫻井氏によれば、赤羽人気の高まりは突然ではなく、5~10年ほど前からの傾向だという。

「北区は23区の中でも比較的“安い”場所と認識されていました。しかし、安いといっても池袋や新宿など都心部へのアクセスが良い。そのコストパフォーマンスが評価され、徐々に人気が上がってきたのです」

 東京23区内で“まだ手が届くエリア”としての存在感を持ち始めたのが、赤羽だった。

 飲み屋街の印象が強い赤羽だが、駅から少し離れれば閑静な住宅地が広がる。この構造は「吉祥寺と似ている」と櫻井氏は語る。

「吉祥寺も駅前はごちゃごちゃとした商店街ですが、その周囲には落ち着いた住宅地が広がっています。赤羽も同じで、駅前の賑わいと住宅地の静けさが共存している。それでいて以前は吉祥寺の半額程度で住宅が買えていたという価格差も、人気を押し上げた要因です」

 駅前の活気を“騒がしい”ではなく“便利で暮らしやすい”と捉える層が増えたことが、人気上昇に拍車をかけた。

 同じ城北エリアの十条や板橋と比べても、赤羽は駅周辺の活気と交通利便性で優位に立つ。JR東日本の主要5路線が乗り入れ、湘南新宿ラインや上野東京ラインを使えば新宿や東京駅にも直通。複数路線が利用できる安心感は大きい。

 さらに商業施設やスーパーが駅前に充実しており、生活利便性の高さも人気を支えている。

山手線外で価格が急騰、赤羽は“スターエリア”に

 東京23区の住宅価格はこの10年で大きく上昇した。特に山手線内側は高騰が著しく、一般の会社員世帯では到底手が届かない水準となった。

「山手線外側にはまだ現実的な価格帯が残っていました。その中で特に人気を集めたのが赤羽と北千住です。いわば“スターエリア”ですね」

 赤羽では駅近の新築マンションが人気を牽引した。数年前までは3LDKで6000万~8000万円程度と、共働きファミリーがぎりぎり手を伸ばせる価格帯だった。これが「なんとか買える場所」として脚光を浴びた。

「赤羽は飲み屋街だけではありません」と櫻井氏は指摘する。人気の幼稚園や緑の多い公園が点在し、教育環境も一定の評価を得ている。駅前の賑やかさに隠れがちだが、子育て世代にとっては“思った以上に暮らしやすい街”だという。

 実際、飲み屋街がある駅前も歩道が広く、反対側に出れば水辺の公園や住宅街が広がる。ディープな印象とのギャップが、新たな発見として移住者に受け入れられている。

赤羽人気は長く続く可能性

 赤羽での新規マンション供給の多くは、工場跡地や社宅跡地で進められている。そのため、既存住民の戸建て住宅地を壊して開発するケースが少ない。

「新しく移ってきた人たちが既存住民と摩擦を起こさず、新しい生活をゼロから始められるのが赤羽の特徴です。これも住みやすさにつながっています」

 赤羽駅周辺では再開発計画も進んでいる。新たな商業施設や高層マンション建設が予定され、街の魅力はさらに高まる見込みだ。

 ただし価格はすでに高止まりしている。3LDKで1億円を超える物件も出てきたが、実需層にとって1億円は現実的ではない。

「一般的に6000万円台までが“なんとか手が届く”水準です。投資目的の買い手が集まらない限り、これ以上の急騰は難しい。ただ、今の水準で下がりにくい“高止まり”は続くと考えられます」

「赤羽人気は間違いなく長期的に続きます」と櫻井氏は断言する。共働き世帯が増えるなかで、都心アクセスの良さと買い物利便性、教育環境を兼ね備えた街は貴重だ。夜も活気がある街のほうが「住んで楽しい」と感じる人も多い。

周辺エリアへの波及は?

 価格高騰で赤羽に手が届かなくなった層は、戸田や川口など近隣エリアにも目を向けている。ただし、外国人住民が多い地域では好みが分かれるため、実際に現地を確認することが重要だという。

「川口は赤羽より安く、潜在的な魅力があります。外国人コミュニティの存在をどう捉えるかで評価が分かれますが、実際に行ってみれば“住みやすい”と感じる人も多いはずです」

 東京全体で見ると、住宅価格は上昇一辺倒ではない。超高額化した都心部に対し、城北・城東エリアは“最後の手の届く場所”として注目を集めてきた。赤羽や北千住はその象徴だ。

 今後、価格が大幅に下がることは考えにくいが、実需層の購買力を超える水準に達した物件は動きにくくなる。結果として「高止まり」が続く可能性が高い。

 赤羽はもはや「せんべろの街」という枠を超え、「暮らす街」として存在感を増している。街の活気、交通の便、生活インフラ、教育環境――これらを兼ね備えた赤羽は、東京の住宅事情の縮図でもある。

「赤羽は楽しい街です。街の賑わいが生活を豊かにし、共働き世帯にとっても暮らしやすい。だからこそ多くの人が憧れるのです」と櫻井氏は結んだ。

(文=BUSINESS JOURNAL編集部、協力=櫻井幸雄/住宅評論家)