【記事の概要】
韓国最大級のゲーム会社出身の夫婦が、障害を持つわが子のために開発した学習アプリ「トドさんすう」の原点を綴ったインタビュー。国際コンペ「グローバル・ラーニング・エックスプライズ」で優勝した同社の強みは、ゲーム開発の知見を活かした「楽しさと学びの高度なバランス」にある。AI時代においても、子供の「学びたい」という意欲を保ち続ける設計思想が、世界1500万人の学びを支えている。
「トドさんすう」「トド英語」子どもを持つ親なら、一度は耳にしたことがあるかもしれない。世界で1500万ダウンロード、日本だけで200万ダウンロードを突破した子ども向け学習アプリシリーズだ。特筆すべきは、単なる「知育アプリ」の枠を超え、「学習継続率が競合の3〜4倍」という圧倒的なLTV(顧客生涯価値)の高さが、同社の真の競争優位性といえる。
開発元は、米国カリフォルニア州バークレーに本社を置くEdTech企業Enuma, Inc.(エヌマ)。同社は2019年、イーロン・マスクが出資した国際コンペ「グローバル・ラーニング・エックスプライズ」(賞金総額1500万ドル)で優勝を果たし、その技術力は世界的に高く評価されている。
だが、その原点は華やかな受賞歴ではない。共同創業者であるリ・コンホ(Gunho Lee)氏と妻のスイン・リー(Sooinn Lee)氏は、もともと韓国の大手ゲーム会社NCSOFT(『リネージュ』シリーズで知られる)に勤めるゲーム開発者夫婦だった。その2人が、障害のあるわが子の学びを支えるために、すべてをかけて教育アプリの世界に飛び込んだ。
本稿では、急遽来日したリ・コンホCTOに、創業の原体験からエックスプライズ優勝の舞台裏、そしてAI時代の教育の未来までを聞いた。
●目次
- 「この子たちには、その技術が必要だ」――医師の一言が変えた人生
- 「楽しい」と「学べる」の間――ゲーム開発者がたどり着いたバランスの極意
- 「うちがやらなかったら、誰がやるの」――創業2年目の”賭け”
- 漫画が通じない子どもたち――タンザニアでの”人類学的”発見
- 日本のユーザーは「一度決めたら、ずっと使う」
- スクリーンタイム問題の本質――「学習アプリは別物」という確信
- 「学びたいという気持ちを保つ」ことが、次の10年をつくる
「この子たちには、その技術が必要だ」――医師の一言が変えた人生
リ氏の長男は、生まれてすぐインキュベーター(保育器)に2〜3カ月入った。そのとき医師から「この子は将来、学ぶのに困難があるだろう」と告げられた。当時、夫婦ともにNCSOFTでゲームを作っていた。
そんな夫婦の転機は、息子を見てくれていた医師の一言だった。リ氏はこう振り返る。
「そのお医者さんが私の仕事を見て『おお、素晴らしいじゃないか。この子たちにはそんな技術が必要だ。やれることは結構多くあるんだから、よろしくね』と言ってくれたんです。そんな話をしてくれた人は初めてでした」
それをきっかけに、妻のスイン氏が障害のある子ども向けの既存ソフトウェアを片っ端から調べ始めた。しかし、「こりゃ使えるもんじゃない」というのが正直な感想だったという。
「自分たちがゲームを作っていたときは、健康な大人からお金をもらって、いっぱい投資して、美しいものを作っていました。似たようなものなのに、なんでこう、同じ時代にこんなものなんだろう。だったら直接作ってやろうじゃないか、と思ったんです」
ちょうどその頃、タッチデバイスが世に出始めた時期だった。それまではマウスやキーボードを子どもに使わせるのは無理があったが、タッチなら可能になるのではないか――。そうして2012年、Enumaが誕生した。
「楽しい」と「学べる」の間――ゲーム開発者がたどり着いたバランスの極意
リ氏が語る「楽しさ」と「学び」のバランスは、ビジネスにおける「ゲーミフィケーションの誤用」への鋭い指摘でもある。
「うちはゲームを作るわけではありません。楽しくやらせることがポイント。楽しくして、やったら、慣れて、うまくなって、もっと楽しいというサイクルが回るかどうか。そのバランスを保つのが一番難しいと思っています」
従来の教育ソフト:学習効果を優先しすぎて離脱を招く。
一般的なゲーム:娯楽性に偏り、教育的リターンが薄い。
Enumaのプロダクト:この両端の「真ん中」を突くことで、ユーザーに「努力している自覚」を持たせずに反復学習を成立させている。
片方だけを追いかけたり、そのバランスに悩まずに文字通りにやろうとすると、ユーザーはすぐに見抜くという 。「ああ、これは考えてないな」と感じるのだ、と。
その設計思想の結果が、エックスプライズのフィールドテストにおいて競合の3〜4倍という子どもの利用時間につながった。
「うちがやらなかったら、誰がやるの」――創業2年目の”賭け”
2014年、Enumaは創業からわずか2年で、賞金総額1500万ドル・期間約5年の大型コンペ「グローバル・ラーニング・エックスプライズ」にエントリーした 。だが、内部の反応は冷ややかだったという。
「投資を受けたスタートアップが、そんなコンペティションに入ること自体、言語道断というか……。4年間持つかどうかもわからないのに、そこにリソースを注ぎ込むのはおかしいんじゃないか。そんな声が結構ありました」
投資家や周囲の反対を押し切ったのは、CEOである妻のスイン氏だった 。「うちがこれをやらなかったら、誰がやるの」その一言が、挑戦への決定打となった。
約300チームから始まったコンペは、11チームのセミファイナルを経て、最終的に5チームのファイナルに絞られた。 まさに背水の陣だった。その後、タンザニアの農村部170村で5チームが15ヶ月のフィールドテストを行い、Enumaの「Kitkit School」が最も高い学習効果を記録して優勝した。
漫画が通じない子どもたち――タンザニアでの”人類学的”発見
タンザニアのフィールドテストでは、参加児童の74%が未就学、90%以上が読み書きができなかった。リ氏は、タンザニアでの経験を「人類学をやっているみたいだった」と表現する。人間の認知の根本に何があるかを探るような作業だったという。
このフィールドテストで証明された、人間の根源的な学習欲求を呼び起こすUXデザインの設計思想を以下の表にまとめる。
【表:認知の壁を突破する「EnumaのUXデザイン」】
また技術面では、オフラインで動作することを大原則にしていたことが功を奏した。アップデートすらできない環境で、新しい端末に移行する際に学習履歴や「報酬」を喪失ではなく新しい成長として演出するなど、細かな工夫の積み重ねが勝利を支えた。
日本のユーザーは「一度決めたら、ずっと使う」
世界展開を進める中で、リ氏は国や文化による子どもの学び方の違いを実感してきた。まず、家庭で学習教材を使うという概念自体が、日本・韓国・中国といった東アジア特有のものであるという。
なによりも、韓国は新しいサービスへの乗り換えが頻繁だが、日本は対照的だという。
「日本の場合は、一度決定したら、ずっと使ってくれます。リテンションが結構高くて、忠誠度が高いんです」
さらに、日本のユーザーはアプリのレビューが「濃い」という。「ただ『よかった』じゃなくて、『これがよかったからこうしてほしい』とか、具体的なフィードバックがあります」。詳細なレビューは、本当に作る側にとってためになるという。
リ氏は、この日本市場の特性を非常に重視しており、現在開発中の新プロダクトも「第1ターゲットは日本から始める」と明かした。
スクリーンタイム問題の本質――「学習アプリは別物」という確信
子ども向けアプリの普及に伴い、スクリーンタイムへの懸念は世界中で議論されている。この点について、リ氏は「デバイスに慣れることは重要」とした上で、学校での利用と、家庭での動画視聴を分けて考えるべきだと指摘する。
「子育て中には、子どもにデバイスをあげるしかない状況になることが結構あるでしょう。でもYouTubeを見せるのは罪悪感があります。でも、トドなら教育的にためになるし、デバイスもあげられるし、子どもも喜ぶ。エブリバディ・ハッピーですよ」
もちろん、子供向けアプリだから、利用時間を保護者が設定できる機能や、幼児の目の疲れを軽減するための優しい色使いなど、安心感がアプリへの信頼になっている。
「学びたいという気持ちを保つ」ことが、次の10年をつくる
リ氏は、AI時代の到来が教育の前提を根本から変えつつあると認識している。
「特にAIの時代になって、この子たちに何を学ばせたらいいのか。これはEdTechだけの問題ではなく、社会全体の問題です。人間は何をして食べていくのか、ということですよね」
だが、変わらないこともある、とリ氏は静かに語った。
「変わらないのは、人間は人間と一緒に生きていくということです。学ばなきゃならないことはずっと変わっていくと思うけど、『学びたい』という気持ちを保つことが一番重要だと思っています。その興味、モチベーションを保てるようなものを、ずっと作っていきたいですね」
リ・コンホ氏の言葉から浮かび上がるのは、テクノロジーへの過信でも、教育への理想論でもない。「わが子のために作った」という原点から一貫して流れる、すべての子どもの可能性を信じる姿勢だ。その積み重ねが、世界1500万人の子どもに届くプロダクトを生んだ。
AI時代に何を学ぶべきかは、まだ誰にもわからない。だが、「学びたい」という気持ちそのものを守り育てること。それこそが、次の10年を担う子どもたちへの最大の贈り物なのだろう。
(取材・文=昼間たかし)