キンプリだけじゃない“いじめ”疑惑 キスマイ「裸でローラースケート」事件

正解のないWEBマガジン~wezzyより】

King & Prince公式サイトより

 岸優太に対してのいじりが酷すぎるとして“いじめ疑惑”が浮上したKing & Prince(以下、キンプリ)。キンプリメンバーはプライベートでも食事や遊びに行くほど仲が良いことで知られているが、過去には永瀬廉へのあたりが強いことも波紋を呼んだ。

 きっかけは、2018年に公開されたファンクラブ限定の動画。キンプリメンバーは原宿に期間限定でオープンした「King&Prince SWEET GARDEN」を訪れたが、神宮寺勇太が永瀬の背中を強く押し、永瀬がよろける場面があった。動画の数カ月前には、平野紫耀、岩橋玄樹、髙橋海人、神宮寺の4人だけでUSJに来ていたとの目撃情報があり、岸と永瀬はグループ内で省かれているとの噂が浮上したのだ。

 “いじり”と“いじめ”の違いであるとか、同じグループ内でもちょうどいい距離をとっての付き合いがあった方がいいとか、様々な見方がある。アイドル雑誌の誌面のように四六時中寄り添っているようなグループはないだろう。プロとして仕事をしている20代の大人同士で、幼稚ないじめが発生するとも考えづらい。ただ、集団内での軋轢は少なからずどこでも生じ得る。

精神科医が分析する徳川家光の“うつ病”…弟・忠長を殺害後、まともに執務もできず苦悩

 いうまでもなく徳川家光は、江戸幕府の第3代将軍である。幕府の開祖である祖父の家康、「生類憐みの令」で知られる5代の綱吉、中興の祖といわれる8代の吉宗ほどの知名度はないが、中学、高校の教科書には必ず記載されている著名人だ。

 一般に家光の時代は、大名の参勤交代の確立、島原の乱の鎮圧などによって、その後200年以上にわたって継続した幕藩体制が確立した時代と考えられている。

 家光は、第2代将軍である徳川秀忠の次男として、1604年に江戸城にて生誕した。秀忠の長男は夭逝しているため、実質的には長男であった。家光の母は、織田信長の妹、お市の方の次女である江である。従って家光は、徳川家だけでなく、織田家、浅井家の血筋を受け継いでいたことになる。

 1600年に起きた関ヶ原の戦いは家康が率いる東軍の勝利で終わり、家光の生きた時代は、まさに徳川家の天下が確立しつつある時期であった。

 その後の歴史をたどると、1615年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡し、幕府の体制は盤石のものとなる。1623年には、退位した父・秀忠に代わって、家光は第3代の将軍に就任した。

 このように一見したところ、家光は「生まれながらの将軍」であり、その人生は順風満帆であったかのように思える。しかし現実は必ずしもそうとはいえなかったようで、その生涯には深い孤独の影がつきまとっていた。

3代・徳川家光は、実は秀忠の子ではなく、家康とお福の間の子ども?

 不思議なことに、徳川宗家の跡取りであった家光について、出生時や幼少時の確かな情報はほとんど存在していない。さらに成人してからも、その人柄を示すようなエピソードも少ない。

 幼少時の家光は病弱で吃音があり、容姿も美麗とはいえなかったらしい。家光には、2歳年下の弟・国松(後の徳川忠長)がいた。

 少年時代になっても家光は口数が少なく、人に言葉をかけることもなく、心の内をうかがいしれないことが多かったという(藤井譲治『徳川家光』吉川弘文館)。

 家光と比べ弟の国松は子ども時代から才気煥発で、秀忠、江らは国松を偏愛し、家光は遠ざけられることが多かった。周囲からは、秀忠の後継は、国松にという声も上がっていたという。

 家光が廃嫡される恐れを感じた乳母のお福(春日局)は、駿府までおもむいて大御所である家康に実情を訴え、家康の裁断で家光の世継ぎが決定したという逸話が伝えられている。この話には尾ひれがついていて、家光は秀忠の子ではなく、家康とお福の間の子どもだという噂話さえ伝えられている。

 実際、最近の学術的な研究においても、家光は母とされる江の実子ではないという仮説が提唱されているという。ただし実母については特定されていない。

 江戸時代の出来事の公式文書である「徳川実紀」においては、徳川家康が後継者を決めたシーンが記載されている。大御所である家康が、隠居先としている駿河から上京し、2人の孫と対面するという場面である。

家康は家光を跡取りとして上座に座らせ、忠長は臣下扱いして、菓子を与える際にも、家光を優先させたという。

 この後継者争いについて実際どの程度のことがあったのか、確実な資料は存在していないようで、後世の作り話も多数含まれているようだ。しかし、その後の兄弟の確執を見れば、家光と忠長の覇権争いが存在したことは確かであり、そのせいもあってさまざまな逸話が“創作”されたのであろう。

 確かに、家光と忠長の母親が違っていれば、この争いには合点がいく面がある。ただ、家光が家康の実子というのは、にわかには信じられない。というのは、家康の末子であり、水戸藩の初代藩主となった徳川頼房の出生は1603年である。仮に家光が家康の実子であったとしても、それを隠す理由は見当たらないからである。

徳川忠長の“奇行”は、精神疾患のなせるわざなのか

 家光の弟である徳川忠長は、1606年の生まれである。元服後の1624年に駿河国と遠江国の一部の領主となり、「駿河大納言」と呼ばれるようになった。

 しかし忠長は、自分の処遇についての不満が強く、父である秀忠に「100万石を賜るか、自分を大坂城の城主にしてほしい」という嘆願書を送ってあきれられたという。

 母の江が死去した頃より、忠長は過度な飲酒に浸ることが多く、また明確な理由もなく部下や一般の住民などを手打ちにして殺してしまうことが何度か見られた。

 1626年には、家光の上洛が決まった際に大井川に船橋を掛けたが、無許可で施工したことが問題視された。1631年には、鷹狩りに出かけた際に雪が降り、薪が雪で濡れていて火が付けられなかったため癇癪を起こして、小姓を手打ちにしてしまう。

 この一件が幕府の知るところとなり、これまでの乱行もあって甲府への蟄居を命じられた。さらに秀忠の死後は領国すべてを没収され、高崎へ逼塞の処分が下された。そして1634年1月、忠長は高崎の大信寺において自刃し、28歳の短い生涯を終えた。

 当時の忠長には、なんらかの精神疾患が見られるようにも思える。酒に酔って家臣の子を殺害したり、殺害した少女を犬に食わせたりという奇行も見られた。城下における辻斬りも報告されている。

 ただ歴史を振り返れば、この家光と忠長の争いだけではなく、権力者の一家における兄弟の争いというのは珍しいものではない。

 源頼朝は弟・義経を追放し、死に至らしめた。室町幕府の創始者である足利尊氏も、重要な協力者であり政権で重要な役割を演じていた弟・直義を毒殺したとの声が根強い。

 家光の場合と似ているケースが、織田信長である。信長には年齢の近い弟・信行がいた。実母は信之を寵愛し、家督の継承を望んだ信行は反乱を起こすが鎮圧された。一度は弟を許した信長であったが、再度信行が謀略を企てていることを知り、先手をとって弟を謀殺したのだった。

弟・忠長“殺害”後、家光は、うつ病におちいった

 忠長の「自害」は幕臣の幹部による決定事項であったと考えられるが、将軍である家光本人の承諾を得たことは明らかである。

 実弟の殺害を了承した家光は、その後深刻な精神状態に陥ることとなった。忠長の死後しばらくして、家光は政務を執り行うことができなくなり、江戸城の表舞台に出ることもまれになった。

 1637年の記録によれば、不眠、食欲不振、発熱に加えて無気力な精神状態(「御心重い」)が持続し、家光は江戸城の奥で養生をする生活が続いた。この時期、さかんに灸による治療が行われたが、効果は見られなかった。このような家光の状態は、今日の目でみれば「うつ病」と考えて間違いはないだろう。

 家光が「うつ病」から回復するには、2年あまりの歳月が必要であった。当時は睡眠薬も抗うつ薬もない時代であり、回復に時間がかかったことはやむを得なかった。この間、家光は諸大名とも幕府の老中とも、ほとんど顔を合わせることもなかった。

 経過から考えれば、家光のうつ病の発症には、忠長の殺害という事件が大きく「状況因」として影響していただろう。理由はともかくとして、実弟を死に追いやったことは、家光の精神に重くのしかかったと考えられる。

 うつ病から回復した家光は将軍としての職務に復帰したが、安定した状態は持続せず、脳出血と思われる疾患により、48歳で死去した。

 家光の墓所は日光東照宮にある。一方、不遇な生涯を終えた忠長は、高崎の大信寺に眠っている。43回忌を迎えるまで、忠長の墓石が建立されることは認められなかったという(岡崎守恭『墓が語る江戸の真実』新潮新書)。

 家光の両親である秀忠と江の墓所は、芝の増上寺に置かれている。さらに高野山には、江に対する石造りの大きな供養塔が存在している。この塔を建てたのは、健在であった頃の忠長であった。

 現実世界においては不幸な生涯を終えた忠長であったが、両親に寵愛され母への思いを貫いた人生は、修羅の孤独を歩んだ家光よりも幸福であったかもしれない。

(文=岩波 明)

●岩波 明(いわなみ・あきら)
1959年、神奈川県生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。都立松沢病院などで精神科の診療に当たり、現在、昭和大学医学部精神医学講座教授にして、昭和大学附属烏山病院の院長も兼務。近著に『殺人に至る「病」~精神科医の臨床報告~』 (ベスト新書)、『精神鑑定はなぜ間違えるのか?~再考 昭和・平成の凶悪犯罪~』(光文社新書)などがあり、精神科医療における現場の実態や問題点を発信し続けている。

事故死した女性芸能人たち…ZARD、ハロプロ、そして泳げない実力派女優は海に転落した

 新型コロナウイルス禍は、リアルに「死」というものについて考えさせられる機会だったのではないだろうか? 特に、志村けん、岡江久美子という有名芸能人が、未知のウイルスに冒されて立て続けに亡くなったことに、強い衝撃を受けた人は少なくないだろう。

 誰もが知る著名人物であろうと、華やかな舞台に立つスターであろうと、いつかは命果てるときが来る。ただ、芸能人の「死」のかたちもさまざまだ。寿命をまっとうして大往生するケースもあれば、なかには志半ばにして痛々しい最期を迎える場合もある。

 このシリーズでは後者にフォーカスして、まずは女性芸能人編として4つの記事を読者諸氏にお届けしたい。前回の「刑事事件」に続いて第2回の今回は、「事故」による死がテーマだ。思わぬ事故に遭遇し、若くして命を失った5人を取り上げたい。

病に苦しみながら、不幸な死を迎えた坂井泉水

「負けないで」「揺れる想い」「マイ フレンド」など数多くのメガヒット曲を生んだZARD坂井泉水は、2000年頃から、子宮筋腫、卵巣のう腫、子宮内膜症などの病に苦しめられていた。そして、2006年には子宮頸癌が発見される。このときは病巣の摘出手術を受け7月に退院したものの、翌年4月に癌細胞の肺への転移が見つかり再入院。抗がん剤による治療を受けていた。

 5月26日、治療後の復帰に向けて前向きな姿勢を見せていたという彼女は、入院先の慶應義塾大学病院内のスロープ状になっている高さ約3メートルの地点から地面に転落。倒れているところを発見される。その後、緊急処置を受けたものの、後頭部強打による脳挫傷のため翌27日に逝去した。40歳の死は多くのファンを悲しませた。

泳げない実力派女優、太地喜和子はクルマで海に転落

 映画『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』(1976年)や、テレビドラマ『白い巨塔』(フジテレビ系)などで知られる女優の太地喜和子も、痛ましい最期を迎えたひとりだ。

 1992年10月、静岡県伊東市で舞台公演期間中に共演俳優2名とスナックに立ち寄った彼女は、酔って「海が見たい」と希望する。行きがかり上、その店のママが自らのクルマを運転して海までドライブすることになった。その際、桟橋からクルマが海に転落するアクシデントが発生。同乗していた2人の俳優とスナックのママは助かったが、もともと泳げなかった上に酒を飲んでいた太地は、命を失うことになる。48歳、女優として円熟の域に達していた時期だけに、映画界、演劇界の損失は大きかった。

ハロプロメンバーがデビュー直前に交通事故死

 結成から約22年、モーニング娘。、松浦亜弥をはじめとした数多くのメンバーが所属したアイドル集団「ハロー!プロジェクト」には、在籍中に死亡した人物が1人だけ存在する。

 のちに里田まい(現在はニューヨーク・ヤンキース投手・田中将大の妻)も加入する「カントリー娘。」のオリジナルメンバーのひとりである柳原尋美だ。同グループは、1999年の結成当初、“半農半芸”なるコンセプトを掲げていた。タレントの田中義剛が北海道の中札内村で経営する牧場で働きながら芸能活動を行う、というスタイルがとられていたのだ。グループ名の由来もそこにあった。

 デビュー直前の1999年7月16日、柳原は自らが運転するクルマで牧場に向かっていた。このとき、運転ミスにより単独事故を起こし車両が横転し、車外に放り出された彼女はその下敷きに。ハロプロのキラキラしたステージに1度も立つことなく、19歳で命を失ったのだった。

アニメ主題歌歌手・志賀真理子は留学先での事故死

 おニャン子クラブ旋風が巻き起こっていた1986年に、アニメ『魔法のアイドルパステルユーミ』(日本テレビ系)で主人公の花園ユーミの声優を担当し、主題歌『フリージアの少年』でデビューしたアイドル・志賀真理子も若くして事故死している。

 彼女は、1989年8月よりアメリカ・カリフォルニア州に留学した。同年11月、友人4人とドライブ旅行に出かけた途中、アリゾナ州の道路で、飛び出してきた動物を避けようとしたところ、車体が横転。車外に投げ出され、全身打撲で即死。20歳の誕生日の直前だった。もしこの事故さえなかったら、留学経験を経た志賀には、どんな輝かしい人生が待っていたのだろうか。

宝塚の舞台下で起きた史上最大の惨劇

 宝塚歌劇団の舞台公演の最中に起きた惨たらしい死亡事故がある。1958年4月、兵庫県宝塚市にある宝塚大劇場では花組による「春のおどり、花の中の子供たち」の公演が行われていた。

 同公演には、男役と娘役が抱き合いながら、セリの降下により舞台下に沈んでいくというシーンがあった。4月1日、その娘役を演じる予定だった人物が風邪をひいたため、月組の香月弘美が代わりに出演していた。

 事件は起きたのは夜の部の公演中、午後6時25分頃である。香月と相手役を演じたM(男役)が、セリ(タテ約1m×ヨコ約3m)の上に移ると同時に、その部分は予定通りに降下し始めた。 先にセリから飛び降りたMが数歩足を動かすと、背後で悲鳴と異常な物音が聞こえた。驚いて振り向くと、着用していた衣装のドレスがセリを上下させるための装置のシャフト(回転軸)に巻き込まれ、表情を失っている香月の姿が目に入った。また、Mの衣裳の背中には血しぶきが染み付いていた……。

 何が起きたのか? シャフトに巻き込まれたため、衣裳の腰回りの金属製ベルトが香月の身体を締め付け、瞬時にしてその身体を上下真っ二つに切断したのである。21歳の香月はその場で即死した。

 これは宝塚に限らず、日本の芸能史においても特異な事故であり、以後は同様の事例は発生していない。世の中全体に、安全管理の意識が低かった時代の話である。

【敬称略】

(文=峯岸あゆみ)

JRA M.デムーロ「ルメール祭り」参戦拒否の意外な理由!? 夏の北海道「毎年のように行きたい」ながらも……

 今週末から、いよいよ開幕を迎える札幌競馬。今年は延期となった東京五輪、または熱中症対策の影響で、8月9日までの小倉競馬が中止。新潟との2場開催となることで、例年以上の激戦が期待される。

「札幌は好きな場所」

 しかし、今年も主役の大本命はこの男だろう。『スポニチ』の取材に応じたC.ルメール騎手が「函館は前が有利だけど、札幌は僕に合っている(笑)」と、2年連続の札幌リーディング獲得に自信を見せている。

 昨年は開催26勝を上げる、まさに“ルメール祭り”。8勝の2位に18勝差をつけ、開催最終日を待たずにリーディングを決めてしまった。

 今年も初陣となる土曜1Rに、デビュー戦で圧倒的な支持を集めながらも2着に敗れたハープスターの全弟アークライトがスタンバイ。好スタートを決めて、今年の札幌も“ルメール色”に染めるつもりに違いない。

 その一方、頑なに札幌へ参戦しない男がいる。ルメール騎手と同時にJRA騎手となったM.デムーロ騎手だ。

 2人がJRA騎手となった2015年以降、「涼しいのが良い」と毎年夏は北海道へ参戦し2016、17、19年と3度の札幌開催リーディングを獲得しているルメール騎手。そんなフランス人騎手に対して、イタリア人のデムーロ騎手の北海道滞在は皆無……。

 函館・札幌を合わせても通算わずか9勝と、ほぼ参戦していない。

「デムーロ騎手は今週も新潟で騎乗している通り、最近の夏は新潟がメイン。北海道には、重賞で有力馬に騎乗する場合や、札幌で開催されるワールドオールスタージョッキーズに参戦する場合以外で参戦することは、ほぼない印象です」(競馬記者)

 やはり、自身がライバルと公言するルメール騎手が、これだけ幅を利かせている舞台は避けたいのだろうか。それともデムーロ騎手には、北海道に行きたくない特別な理由があるのだろうか。

 記者からは「意外な話」が聞けた。

「本人は決して悪い印象を持っていないみたいですよ。以前、『netkeiba.com』のインタビューで『印象もすごくよかったし、食べ物が信じられないくらい美味しかった。あの感動は、今でも忘れられない』と函館を絶賛していました。

しかし、どうやら夏でも涼しい北海道の気候が、デムーロ騎手にとっては良くないようで……寒いのが苦手というよりは、汗をかき辛い環境で体重のコントロールが難しいんだとか。『食べ物が美味しくて、汗をかかないなんて最高に快適だけど……』と本人も苦笑いしていたそうです」(別の記者)

 実際に、今年2月には岩田望来騎手が体重の調整ができずにJRAから10万円の過怠金処分。昨秋には義英真騎手が30日間の騎乗停止という非常に重い処分を受け、モチベーションの低下を理由にそのまま引退している。

 デムーロ騎手自身も「毎年のように行きたい」と言いながらも、背に腹は代えられないということか……。一方のルメール騎手は「気をつけなければならないけど、お店もサポートしないとね」とコロナ禍の中、万全の注意を払いながら今年も札幌の夏を満喫するようだ。

JRAでは“基本”レース不成立! キングジョージ6世&クイーンエリザベスS(G1)で「56年ぶり」の異常事態発生!? A.オブライエン「エネイブル討伐」に自信ありの証か

 日本では滅多に見ることができない光景が海外競馬で見られそうだ。

 25日、イギリスのアスコット競馬場でキングジョージ6世&クイーンエリザベスS(G1、以下キングジョージ)が開催される。世界最強馬エネイブル(牝6歳、英・J.ゴスデン厩舎)の今年2戦目に世界中の競馬ファンが熱い視線を注ぐことになるだろう。

 当初は8頭の出走登録があったが、23日に確定した出走馬はわずか4頭。エネイブル以外はすべてA.オブライエン厩舎が管理する4歳牡馬で、昨年の英インターナショナルS(G1)勝ち馬のジャパン、英ダービー馬のアンソニーヴァンダイク、愛ダービー馬のソヴリンが出走を予定している。

 日本の中央競馬で5頭立てのレースを目にする機会はあると思うが、4頭立てのレースはほとんどお目にかかれない。なぜなら、「G1、G2、トライアル」を除いて、出走登録馬が5頭未満のレースは施行されないからだ。そのため、4頭立てが実現するのは5頭立て以上のレースで「出走取消、競走除外」が発生した場合のみ。過去10年で4頭立てのレースが施行されたのは、2012年8月4日の札幌5Rの1回だけである。

 また、グレード制導入後、JRA重賞競走の最小出走頭数は1989年の新潟3歳S(G3)の5頭立て。中央競馬の重賞競走では4頭立ての施行は一度もないのだ。

 欧州競馬では先日のエクリプスS(G1)が7頭立てだったように、有力馬が出走することで勝ち目がなさそうな馬がレースを避けることにより、小頭数で重賞が行われることも珍しくない。だが、キングジョージが4頭立てで行われるのは「56年ぶり」の史上最少タイと滅多にないことだ。

「今年のキングジョージは最初の登録の段階から、ゴスデン厩舎が2頭、A.オブライエン厩舎が6頭と名伯楽による一騎打ちの様相でした。これはエネイブルの次走がキングジョージと早い段階から表明されていた影響がありますね。エネイブル撃破にオブライエン厩舎だけが名乗りを挙げたわけです」(競馬記者)

 しかし、当初登録のあったマジカルやサードラゴネットは、翌日にアイルランドのカラ競馬場で行われるタタソールズゴールドC(G1)に向かうことになった。

「マジカルは現地のブックメーカーのオッズではエネイブルに次ぐ2番人気でしたが、より勝利できる可能性の高いレースに出走することになりました。これはA.オブライエン調教師の厩舎経営力がまずひとつ。そして、3頭でエネイブル包囲網が作れると判断したのではないでしょうか。鞍上もR.ムーア、O.マーフィー、W.ビュイックというスゴイ布陣です。それをどうL.デットーリとエネイブルが掻い潜るか見物になりそうですね。

ちなみに、出走馬が4頭になったことで、『ゴスデン×ナサニエル』VS『オブライエン×ガリレオ』という対決構図にもなりました。父と厩舎も同じですし、時代を超えたキングジョージ勝ち馬対決にも注目したいですね」(同)

 ナサニエルが制した2011年のキングジョージは5頭立てで行われたが、1頭が落馬したことにより最終的に完走したのは4頭。父と同じくエネイブルも4頭のうち最初にゴール板を通過することができるだろうか。

 小頭数とはいえ、レースのアツさが下がることは全くなさそうだ。

【SGオーシャンカップ】地元・田村隆信の「夢」霧散……! 準優当確級から「コンマ01」のフライングで戦線離脱の悪夢

 ボートレース鳴門で開催されている「SGオーシャンカップ」(優勝賞金3300万円)は23日、佳境の3日目を迎えた。ただ1人の地元参戦で、優勝候補筆頭の田村隆信(42・徳島)が、6Rでコンマ01のフライング。準優12Rの1号艇という〝ポールポジション”を目指した過程での勇み足で、無念の戦線離脱となった。

 まさに天国から地獄だ。田村は6Rのカド4コースから一気にまくり切ったが、痛恨のフライングコールでピットへ帰還した。大時計の針が0秒から1秒を指す間にスタートラインを通過しなければならないボートレース。地元鳴門でのSG制覇という田村の夢は、コンマ01、わずか数十センチのフライングで霧散した。

 2日目まで得点率4位タイの好位置につけていた田村。十分に“準優圏内”で「フライングの危険を冒す必要はなかったのでは?」と思うファンも少なくないだろう。だが、田村の見据えていたものは〝優勝”のみ。極論すれば、田村にとって“優勝”以外は、準優勝も予選落ちも大差はなかったのではと推察される。

 つまり4日間の得点率1位に与えられる「12Rの1号艇」を念頭に置いた勝負だったと言えるだろう。12Rの1号艇で勝てば、自動的に優勝戦の1号艇という“ポールポジション”が手に入る。昔の競艇と違い、現在のボートレースは枠なりが基本。1号艇の有利さは過去の競艇とは比にならない。そのため、田村にとって4号艇と3号艇だった3日目の2走が、“ポールポジション奪取”のための勝負どころで、特に前半6Rはカドまくり一撃と心に決めていたように映った。

 最初からギリギリのスタートを行くつもりで、腹をくくっていたのだろう。スタートで最後まで伏せることなく、大時計を見続けていたのはその表れ。これは推論だが、鳴門の水面で育ち、誰よりも走り慣れている田村でさえ、6Rがタッチスタート(コンマ00)手前で残っているか半信半疑だったかもしれない。

 しかし、あの状態で思いきりレバーを放れば、勝利はおろか、大きく着順を落としてしまう。その結果、ポールポジション獲得も厳しくなる。これも優勝だけを見据えて勝負に出た結果の、勝負の綾(あや)。これがボートレースの怖さでもあり、また魅力でもある。誰も田村を責められないだろう。

 田村隆信という選手の素晴らしさは、フライング直後の後半10Rで見て取れる。フライングで戦意喪失どころか、3コースから岡崎恭裕の上をたたいて、イン池田浩二の内に艇を入れる、こん身のまくり差しで快勝。賞典除外で優勝の芽は消えても、責任感の強い走りでファンの期待に応えている。これも地元の絶対王者・田村の意地だろう。

 いよいよ4日目の24日は予選最終日。25日の準優勝戦18席を目指し、最後のバトルが繰り広げられる。得点率が18位前後の選手は、とにかくベスト18入りへ全力投球。また得点率上位の選手も準優1号艇、特に12Rの1号艇を目指し、死力を尽くした戦いが待っている。

羽生善治が平尾誠二との交流の中で気づいた「将棋とラグビーの共通点」

 

 2019年の日本スポーツ界の中心にいたのは、間違いなくラグビー日本代表だった。母国開催となったワールドカップで、史上初めてベスト8に進出。スローガンの「ONE TEAM」は流行語の年間大賞になり、日本中に勇気を与えた。

 そんなラグビー界における最重要人物の一人が、平尾誠二だ。1980年代より選手として日本ラグビーを引っ張り続け、1997年には34歳の若さで日本代表監督に就任。「ミスター・ラグビー」と呼ばれた男は、2016年10月20日、がんのために53歳の若さで死去した。

 日本ラグビー大躍進の裏には、この平尾の存在は欠かせない。

 髭を生やしたダンディないで立ちは、ラグビーの持つ荒々しいイメージと一線を画す。ラグビーに対する情熱の深さとともに、様々な異業種の人物たちとの交流を通し、ビジョンの広さを持ち合わせていた。

■羽生善治が語った「将棋とラグビーの共通点」

 読売新聞オンラインの連載をまとめた『平尾誠二を語る』(橋野薫、込山駿著、草思社刊)は、平尾の交流の広さとその人柄をじっくりと味わえる一冊だ。

 記者が生前の彼と懇意にしていた人たちに取材を行い、どんな人間だったのかを浮き彫りにしていく。ラグビー関係者もいれば、全く別のジャンルのトップもいる。

 例えば将棋棋士の羽生善治九段は、お互いが20代の頃から交流し、刺激を与えあっていたという。互いの試合を観に行ったりもしていたそうで、羽生九段は平尾の出場する試合を観るため、秩父宮ラグビー場に足を運び、平尾は羽生九段の1995年の名人戦の対局を静かに見つめていたという。

 まったく異なる「2つの戦い」だが、共通する部分があるようだ。羽生九段は将棋とラグビーの共通点について次のように語っている。

「データは大事ですが、すべてではありません。データはあくまで過去のことで、実際にやっている対局や試合は、はじめて出会う場面です。事前に考えたことよりも、そのときの雰囲気、流れ、自分自身が感じとったものを、大切にするべき。その場に応じた瞬間的な対応のほうが、データよりも比重が大きいんです。そこに対局や試合の面白さ、難しさがあり、将棋とラグビーの共通点なのかなと思いますね」(p.181より)

 ラグビーはチーム競技、将棋は個人での戦いという違いはあっても、個性や独創的なアイデアを大切にして、自分のいるフィールドに変革をもたらす2人の間にはシンパシーができていたのだろう。

■息子への言葉「親の死に目に会えると思うな。だから帰ってくるな」

 本書のラストを飾るのが、平尾の長男である平尾昂大さんへのインタビューだ。

 昂大さんが子どもの頃にはすでに現役を引退していた平尾。しかし、指導者として仕事に練習にと家にいる時間も少なく、一緒に過ごす時間は短かったという。ただ、近くの公園でキャッチボールやバスケットのパスの練習などを楽しんでいたそうだ。

 その後、昂大さんはアメリカに留学。父が病気だと分かると、頻繁に日本に帰るようになったが、死に目には会えなかったという。

 10月12日、平尾の容体悪化の知らせを聞き、昂大さんが帰国。試験のために日本を離れなければいけない時間が迫る19日、父と握手を交わした。これはいつも別れ際の習わしだった。翌日、アメリカに着いて間もなく、平尾が亡くなったことを知る。

 生前、「親の死に目に会えると思うな。だから帰ってくるな」と父から聞かされていたが、その言葉が現実になってしまった。「ありえないと思いました。死ぬなんて」という本音を、昂大さんは記者に打ち明ける。

 ◇

 ほかにも山中伸弥氏をはじめ、元文部科学副大臣の鈴木寛氏、元プロテニスプレイヤーの沢松奈生子さん、そしてラグビー関係者まで11人のインタビューを通して、平尾の人生を追いかける本書から、常に「ラグビー界の未来」を作ろうとし続けていた彼の生き様や信念を感じることができるだろう。

 ただ、著者が「平尾さんがどんな人だったかと問われると、答えに窮してしまう。いまだに定まった人物像を持てないでいる」(p.302より)とつづっているように、様々な顔を持ち合わせてもいたようだ。

 「ミスター・ラグビー」平尾誠二とは一体どんな人物だったか。それはこの本を読んだ読書個々人の中で導き出してほしい。(新刊JP編集部)

※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。

パチスロ「果てしなく続く」夢の集中役「ジャンボフルーツ」~2号機名機伝説「チャレンジマン」前編~【アニマルかつみの回胴青春時代Vol.11】

 

 2号機から新たに認められたボーナス以外の出玉増加装置「集中役」。

 文字どおりこれは、小役やシングルボーナスが高確率になって「集中的に揃う」というもので、現代のATやARTのようなもの、と言えば若い方にもおわかりいただけるだろうか。

 多くのマシンでは、前回ご紹介した『ウィンクル』のように継続ゲーム数が60G程度で180枚程度の獲得という、いわばBIGとREGの中間的な位置づけであった。

 ところが、である。とあるメーカーは早々にこの集中役に秘められた無限の可能性に気づき、その限界に挑戦。2号機時代初期のシーンに一大センセーションを巻き起こす。

『ジャックポット』シリーズでお馴染みの岡崎産業。その前身となる尚球社は、まだ戦後の混乱期にあった昭和25年にパチンコ玉の製造メーカーとして大阪で創業した。

 パチスロ業界参入は0号機時代初頭というのだから、社名は変わったが現存するメーカーとしては最古参の部類に入るだろう。実は、第6回で紹介した史上初のパチンコ型(箱型)スロット『パチスロパルサー』の製造をしたのも同社だ。

 そんな業界屈指の老舗メーカーの2号機第1弾として昭和63年秋に登場したのが、『チャレンジマン』である。


 分類上はBIGとREGを持つAタイプだが、冒頭からの話の流れで、それらがこのマシンにおける出玉獲得の主役ではないことは、容易にご想像いただけるだろう。

 本機には、他の多くの2号機と同様にボーナス役に加えてフルーツ(小役の集中役)が搭載されており、プログラム上の継続ゲーム数は15Gと60Gの2パターンとされた。

 が、これはあくまで建前上のものであって、実際のところはなんと、特定の条件をクリアすることによって、「BIGフラグが成立しない限り永久的に継続」してしまうのである。

 どういうことかと言うと、文章で説明すると長くなってしまうので画像の抽選フローをご覧いただきたいが、早い話が巧妙な抽選のトリックによって「ひとたび60Gのフルーツに当選すると永久にそれがループする」のである。


 ともかく、この果てしなくメダルを吐き続ける怒濤の集中役「ジャンボフルーツ」は、一攫千金を夢見る巷のギャンブラーたちを熱狂させた。

 BIGとREGの両ボーナスで出玉を増やす。そんな従来のパチスロのゲーム性を、チャレンジマンは根底から覆してしまったのだ。

 集中役という新たな出玉増加装置が秘め持つ無限の可能性を世に知らしめたことで、後発のマシンに与えた影響は計り知れないだろう。

 残念ながら自分自身は、「ジャンボフルーツで人生初万枚を記録した」と言ったような自慢話は持ち合わせていないのだが、チャレンジマンというマシンにはちょっとした思い出がある。次回はそれについて綴らせていただこう。


(文=アニマルかつみ)

城田優、衝撃写真が流出…VIPルームで札束を握りしめる賭博報道の実業家の横で笑顔

 あの人気タレントの衝撃的な写真が注目されている――。

 7月20・21日付「デイリー新潮」は、読売ジャイアンツ(巨人)・原辰徳監督が常習的に賭けゴルフに興じていると報じた。「新潮」によれば、原監督は不動産会社社長で芸能事務所の実質的オーナー・A氏らと、1日で100万円ほど動く賭けゴルフをしばしば行っているという。

「他のマスコミがこの報道を後追いする動きは、ほぼ皆無です。テレビ各局やスポーツ紙各紙は、巨人を敵に回せば巨人戦だけでなくプロ野球全体の取材に支障が出ることを恐れて、巨人との関係をこじらせるような報道には二の足を踏まざるを得ない。かつてに比べて人気が落ちたとはいえ、テレビ局やスポーツ紙にとってプロ野球はいまだに重要なコンテンツであることには変わりありません。ただでさえコロナの影響で開幕が延び、やっと6月にペナントが始まったばかりということもあり、今ここで水を差すようなことをしても、マスコミ側にとってはなんのメリットもないですからね」(テレビ局関係者)

「新潮」によれば、A氏は一般には売られていない東京ドームのVIPルーム「スイート倶楽部」に人を集めて野球賭博に興じており、さらに巨人がドーム来場者に配布する『ジャイアンツガイド』の裏表紙一面にA氏の会社の広告が掲載されるなど、A氏と巨人は深い関係にあるという。

「野球賭博といえば、2015年に巨人の選手4人が関与していたことが発覚して逮捕者まで出て、球界を揺るがす大問題に発展しました。もしその巨人の本拠地であるドームの個室で野球賭博が行われていたのだとすれば、NPB(日本野球機構)などが厳しく対処すべきでしょう」(スポーツ紙記者)

 そして「新潮」記事に掲載されたある写真が、マスコミ関係者の間で注目されているという。

「VIPルームで札束を握りしめるA氏の横で楽しそうに笑うタレントの城田優の写真が掲載されているのですが、結構衝撃的ですよね。城田も一緒に賭博に興じていたわけではないでしょうけれど、そういう疑いを想起させてしまうには十分な写真です。プライベートとはいえ、こういう場に参加するということ自体、不適切だといえるでしょう」(週刊誌記者)

 気になるのは、なぜタレントである城田がA氏と親交を持つようになったのかであるが、前出・スポーツ紙記者はいう。

「意外と知られていませんが、野球好きの芸能人には、プロ野球選手やその選手とつながりを持つ実業家などとプライベートで交流がある人が少なくないんです。野球好きの人物の紹介や番組での共演などがきっかけで、自然と食事をしたりといった関係ができるんです。また、そうした芸能人やプロ野球選手と親交を持ったり、金銭面含めていろいろと“お世話”をすること自体をステータスと感じて積極的に世話を焼く実業家も少なくありません」

 名が知れた芸能人やスポーツ選手ほど、世間から疑いを持たれるような行動は自重したほうがよさそうだ。

(文=編集部)

 

JRA大量12頭出しで勝利をゲット!? “ミルファーム軍団”が夏の新潟開催開幕戦をジャック!!

 夏の新潟の風物詩になりつつある光景が、今年はさらにパワーアップしているようだ。

 25日(土)新潟1R・2歳未勝利戦(芝直線1000m)。16頭立てで行われるここに、(有)ミルファームが12頭も所有馬をエントリー。今年も白に赤格子、赤袖の勝負服の騎手を背に乗せて、夏の新潟開催の幕開けに華を添える。

 これまでもミルファームは大量の多頭出しを行っており、17年8月5日の新潟2R、18年8月4日の新潟2R、19年8月3日の新潟4Rで、同一オーナーによる9頭出しというJRA記録を持っていた。今回はそれを3頭も上回ることになる。

 ミルファームの清水敏代表取締役は「デイリースポーツ」の取材に対し、ここが目標の一環だと明かし、「レースの勝ち負けはともかく、育成(牧場)と厩舎のコミュニケーションがうまく行っているからこそ、これだけ送り出せたのだと思っております」と胸を張る。

「壮観の一言ですね。この光景を楽しみにしている競馬ファンもいるのではないでしょうか。ただ清水代表も『レースの勝ち負けはともかく』と語っている通り、9頭出しで挑んだ過去3戦で、勝利したのは18年の1度のみと、少々寂しい結果に終わっています。

 ただ今年は前走の4日福島・2歳新馬戦(芝1200m)で3着だったマクフィ産駒ギョベクリテペ、12日福島・2歳新馬戦(芝1200m)で5着のリーチザクラウン産駒アッシュグレーらが人気を集めると見られています。“大量”多頭出しは1勝2敗ですが、今年で五分に戻す可能性もありますよ」(競馬誌ライター)

 これまでも同じ勝負服の馬が大量に出走するため、実況アナウンサー泣かせだと言われていたが、今年は例年を上回る数で“ミルファーム軍団”が登場。ここがアナウンサーの腕の見せどころだろう。混乱せずに、名調子での実況に期待したい。

 ミルファーム軍団が数に物を言わせて勝利を収めるのか、それとも他の陣営がそこに割って入るのか。色んな意味で発走が待ち遠しい。