「大きなスロットマシン」から「小さなパチスロ」へ~『パチスロパルサー』前編~【アニマルかつみの回胴青春時代Vol. 06】

 昭和52年の『ジェミニ』の登場は、日本における「遊技機としてのスロットマシン」の、まさしく文明開化と呼ぶべきエポックであった。

 ジェミニの生みの親である角野博光氏は、何よりもこの新たな遊技機の普及と業界の発展を目指していた。

 前回も書いたとおり、決して利益や権利を独り占めすることはせず、新たに業界に参入しようとする業者に技術やノウハウ、さらには筐体や部品も惜しげもなく提供したのである。

 そんな氏の尽力もあって、昭和50年代半ば頃にかけて関西を中心にスロットマシンメーカーが次々と立ち上がり、徐々にだが確実に市場は拡がっていた。

 ちょうどこの頃、インベーダーゲームが社会現象的な大ブームになっていて、客を取られたパチンコ業界は決定打となる対抗策を模索していた。そのことも、スロットマシンが普及するにあたっての追い風となった。

 のちに『フィーバー』や『ゼロタイガー』といった新ジャンルのパチンコ機が登場して一世を風靡することで業界は起死回生を果たすことになるのだが、それらに先んじてスロットマシンは、救世主としての役割を果たしていたのである。

 ちなみに、当時のスロットマシンは、旧来からの「オリンピアマシン」という呼称も残ってはいたが、「アメリカンパチンコ」あるいはそれを略して「アメパチ」と呼ばれていたらしい。

 ともかく、新しいもの好きのホールやファンに支持され、そこそこのブームとなっていたスロットマシンだったが、現在のように全国のパチンコ店に導入され市民権を得るには、まだまだ解決しなければならない問題があった。

 なにせ、一般的なパチンコ台が2~3万程度の時代にあって、本体価格70万円、付帯設備も含めると100万前後にもなる高価なシロモノだ。いくらパチンコと比べて圧倒的に収益性が高いとはいえ、そう簡単には導入できない。

 そしてなにより、アップライト型機は巨大だ。右側にスタートレバーがあるため、その分のスペースも取らなければいけない。郊外型の大きなホールならともかく、駅前の商店街にあるような小規模なホールに導入するのは容易ではない。

 

「ならば、サイズを小さくしてパチンコのシマにすっぽり収まるようにすればいいのではないか」

 そう考え動いたのが、山佐の創始者である佐野慎一氏である。

 当時、佐野氏は地元の岡山で、家業の材木商やガソリンスタンド事業を営む一方、ゲームマシンのリース事業も行っていて、その流れでジェミニなどのスロットマシンを扱っていた。

 東大理工学部出身で電子工学の分野に精通していた佐野氏は、スロットマシンを扱う中で常々、システムの近代化について考えていた。

 最初のオリンピアマシンと比べると進化していたとはいえ、当時のスロットマシンは機構的にはまだまだアナログな要素が強く、改良すべき点が多々あった。

「サイズを小さくするには、古くて大がかりなアナログのメカを廃して電子化しなければならない」

 そう考えた佐野氏は、専門誌に論文を掲載していた技術者2人を巻き込み、コンパクトで近代的なスロットマシンの開発を始める。

 そして昭和55年、ついにパチンコのシマに収まるコンパクトなスロットマシンは誕生した。

 パチンコ型スロット、略して「パチスロ」。その第1号機、そのものずばり『パチスロパルサー』である。

 パチスロパルサーは、いかにして小型化を実現したのだろうか。次回は、そのあたりを詳しく掘り下げてみよう。

 

(文=アニマルかつみ)