いつになったら解除されるのか見通しもつかない緊急事態宣言による外出自粛要請。
ホールに打ちに行くこともできなければ、気心知れた友人知人らと呑みに出ることもできず、家に籠もって悶々とした日々を過ごしているのは、何も筆者に限ったことではないんだけれど。
とりあえず時間に余裕ができたこともあって、新たな連載を持たせてもらうこととなった。
タイトルは「回胴青春時代」。筆者個人の思い出や体験なども交えつつパチスロの歴史を振り返る、というのがざっくりとした企画趣旨である。
同年代の方には懐かしく思っていただけるかも知れないが、そうでない若い方が果たしてついてこられるか心配なところではあるが。まぁ、ステイホームの暇つぶしにお付き合いしていただければ、これ幸いである。
さっそくだが、まずは手始めに筆者がパチスロを打つようになったきっかけというか、初打ちの時のエピソードを綴らせていただくとしよう。
時は1989年、激動の昭和が幕を下ろし平成の世が幕を開けた最初の年の、夏の終わりのある日のことだった。
その日は朝からパチンコを打っていたのだが、調子が奮わず日が暮れる頃にはけっこうな額を溶かしていた。
「…はぁ、これで最後か。これが無くなったら、また明日から日雇いでもやらな、あかんなぁ」
当時、筆者は大阪を拠点にバンド活動をしていたのだが、いくらバブルの全盛期で景気がよかったとはいえ、それだけでメシが喰えるほど世の中は甘くはなく、調子がいい時はパチンコで稼ぎ、そうでない時は日雇いとか短期のバイトでしのぐ。そんな不安定な生活に甘んじていた。
ともかく、起死回生の逆転満塁ホームランを天に祈りつつ、トイレで用を足したあと、財布に残っていた最後の1万円札を景品カウンタそばにあった両替機に挿入した。
ところが、である。負けが込んで頭に血が上っていたのだろう。両替機と思い込んでいたそれは、パチスロのメダル貸し機だったのだ。
4金種対応の台間サンドが完備されている現在なら、こんな間違いはしなかっただろう。
しかし当時はというと、パチンコもパチスロも台間サンドはあっても高額紙幣はシマ端などにある両替機で千円札に両替しなければならなかった。
さらに言えば、パチスロに関しては台間サンドも無く、いちいちシマ端のメダル貸し機で千円ずつメダルを借りなくてはならない店も珍しくなかったのである。
とにかく、50枚のメダルを手にして途方に暮れてしまったわけだが、実は前にも一度、同じミスを犯したことがあって、その時はそのまま計数機に流してタバコに替えた。が、前述のとおりこの日は負けが込んで頭に血が上っていたので、「もう、なるようになれ」とばかりに、パチスロのシマに足を踏み入れたのである。
広いホールの片隅にあったそこは、明るいパチンコのシマとは違って照明が落とされて薄暗く、素人には近寄りがたい雰囲気が漂っていたが、適当に空き台を選んで腰を降ろした。
機種は、山佐の1.5号機『パルサーXX-Σ』。総数千数百もの大量リーチ目で人気を博していたマシンである。雑誌の記事でさらっとだが読んだことがあり、なんとなく知ってはいたのだが、いざ実機を前にすると緊張するものである。
台上のリーチ目表と周りの先輩方の所作をチラ見しつつ、おぼつかない手つきで打ち始めた。
回転するリールを「ぼーっ」と眺めていると、ピンクや黒、緑の塊が一定周期で通り過ぎるのがわかった。
「これを狙えば、そのうち揃うんだろ?」
そんな風に思いながら、バンド演奏でカウントインするかのごとく「ワン、ツー、スリー、フォー」とリズムを取りながらボタンを押し続けた。
奇跡が起きたのは、下皿のメダルが残り数枚になった頃だった。
「じりりりりーん」
古風なベルの音とともに、ピンク色の7絵柄が3つ、中段に揃った。
パチンコのセブン機のような祝福のファンファーレもなく、「これが本当に大当りなのか」と不安になったりもしたが、いわゆるビギナーズラックというやつか。たったの千円で、生まれて初めてパチスロを当ててしまったのである。
もし、あそこで両替機とメダル貸し機を間違えていなかったら、果たしていまの自分はあったのだろうか。人生、どこでどうなるかわからない。だからこそ、面白いんだけれども。
(文=アニマルかつみ)