●この記事のポイント
800億円規模の政治広告市場に挑むキャピタルシンク・松井亜里香氏の戦略を詳解。公職選挙法の規制を「参入障壁」という武器に変えるルールメイキング手法や、政治家の地域網をデジタルサイネージで資産化する投資型モデル、落選議員の採用による専門性確保など、レガシー領域を突破する経営戦略を深掘りする。
「政治の世界は、あまりにもアナログだ」――。
選挙のたびに街中に溢れる紙のポスター、住宅街を低速で走り抜ける街宣車、そして膨大な人力を投じて一軒一軒配られるポスティング。デジタル化が叫ばれて久しい現代において、政治領域だけは依然として昭和の景色が色濃く残る。
この「負」が凝縮された超レガシー領域に、テクノロジーと“ルールメイキング”を武器に斬り込むスタートアップがある。株式会社キャピトルシンクだ。代表の松井亜里香氏は、自ら国会議員秘書を務めた経験を持ち、公職選挙法という「複雑怪奇な壁」を逆手に取った独自のプラットフォーム戦略を展開する。
大手広告代理店こそ参入しづらかった「政治×広告のDX」の領域で、彼女はいかにして戦場を設計したのか。その軌跡は、規制に縛られた日本で新たな市場を創出せんとする全経営者への金言に満ちている。
●目次
- 800億円の「消えない市場」と、巨人が踏み込めない空白地帯
- “ルールメイキング”を事業の核に据える――「守る」から「作る」へ
- 政治家の「負」を解決する――落選議員のセカンドキャリア支援
- データの利活用が拓く、新しい民主主義の形
- 経営者に求められる「覚悟」の質
800億円の「消えない市場」と、巨人が踏み込めない空白地帯
松井氏が着目したのは、選挙に関連して動く膨大な予算と、その「リカーリング(継続)性」だ。
「この国が民主主義である限り、選挙は絶対になくなりません。国政選挙1回で約800億円もの公費が動くとされており、さらに地方選挙を含めれば、日本中のどこかで一年中選挙が行われている。これほど巨大で、かつ景気に左右されない安定した市場は他にありません」
しかし、これまでこの領域にITスタートアップや大手広告代理店が浸透してこなかったのには、構造的な理由がある。一つは「政治をタブー視する」日本企業の風潮、そしてもう一つが、専門家ですら見解が分かれる「公職選挙法」という法的リスクだ。
「最大手の広告代理店には、長年の付き合いの中で『色』がついてしまっています。特定の政党と深く結びついているため、全政党をフラットに扱う『中立的なプラットフォーム』を構築することが構造的に難しかったのです。一方、広告を受け入れる側の企業は色が付くのを嫌がります。私たちはスタートアップとして、どの政党にも属さないインフラを目指すことで、既存のパワーバランスを上手く調整して進めています」
松井氏は、政治家(議員・候補者)、地元企業(スポンサー)、そして有権者を結ぶ「設置型デジタルサイネージ」を主軸に据えた。キャピトルシンク社が政治家の地元の店舗や街頭にサイネージを置き、そこで政治家の政策広告を流すとともに、地元の企業の広告も流すことで広告収入を得る。
このビジネスモデルは実はとある大臣経験もある大物政治家による一言で生まれたという。
「私は議員秘書の経験があるので、ポスター貼りの大変さを知っていました。政治家や秘書が暑い日も寒い日もポスターを貼ったり剥がしたりしていて非効率的だったので、もっと政策にリソースが使えるようにサポートできるサービスを作りたかったのです」
政治家の「地域ネットワーク」をデジタル資産化するこのモデルは、これまでの「貼っても1円にもならなかった使い捨てのポスター」とは一線を画す。
“ルールメイキング”を事業の核に据える――「守る」から「作る」へ
スタートアップが規制の厳しい領域で勝つために、松井氏が取った戦略は「既存のルールに従う」ことだけではなかった。
「公職選挙法は、1950年に制定された古い法律です。インターネットやデジタルサイネージといった概念がない時代のルールを現代に適用しようとすると、どうしてもグレーゾーンが生じます。そこで私たちは、ルールを後から守るのではなく、ルールを自ら作る側へ回ることにしました」
松井氏は「政策広報DX協会」を立ち上げ、管轄庁である総務省との対話を重ねた。デジタルサイネージを政治活動に利用する際のガイドラインを策定し、法的な位置づけを明確化していったのだ。これは、かつてAirbnbやLuupが、既存の法律(旅館業法や道路交通法)に対して取ったアプローチと同じ「ルールメイキング戦略」である。
私は投資家から「お前は政治領域で起業しろ」と言われていたため、「規制があるからできない、と諦める選択肢はありませんでした。規制があるからこそ、それをクリアしたプレイヤーだけが先行的に市場を独占できる。しかしせっかく民間の知見で政治を変えようとしても政治の経験がない人たちにとっては公職選挙法は複雑怪奇な上、法律だけではなく政治を理解していないと攻めと守りのバランスが非常に難しく、選挙の度に違反者・逮捕者が出てしまうのはとても残念に思います。私たちは徹底的な守りを固めるために、精緻な『公職選挙法チェックリスト』を作成しました。何がアウトで何がセーフか。役所と詰め切ったこのノウハウ自体が、後発企業に対する強力な参入障壁(MOAT)になるのです」
「ファーストペンギンとして市場を切り拓いていくのは簡単なことではありません。特に全く文化も常識も違う政治側と民間側の連携が必須の事業では、双方にハッタリを利かせて進めざるを得ないこともあります。偉い人たちを多く巻き込んでしまっている中で、選挙というテーマ上どうしても話が大きくならざるを得ないため、双方の進むスピードの違いや度重なる選挙の混乱で心臓がえぐれるような経験も何度かありました。まさに絶体絶命でしたが、その時確信したのです。大手がここまでリスクを恐れる領域だからこそ、ここを突破できれば、我々がこの市場を支配できる、と」
政治家の「負」を解決する――落選議員のセカンドキャリア支援
松井氏の視線は、サイネージという「道具」の先にある、政治業界全体の構造改革に向けられている。その象徴的な取り組みが、落選議員や政治家志望で民間企業や政府を辞めた方々の積極採用だ。
「『猿は木から落ちても猿だが、政治家は選挙に落ちればただの人だ』という有名な言葉があります。政治家は落選した瞬間、収入を失い、世間からも冷たい目で見られる。しかし、彼らが持つ地域の課題解決能力や、複雑な利害関係を調整するスキルは、ビジネスの世界でも極めて価値が高いはずです」
キャピトルシンクでは、現在多くの元議員や政治家を目指す元官僚を雇用してきた。彼らは「政治の現場」を知り尽くしているため、顧客である現職議員への提案力が極めて高い。同時に、彼らが「もし落選しても、キャピトルシンクのような受け皿がある」と思えるようになれば、志のある若者が政治家を目指す心理的ハードルも下がる。
「私たちは、政治を志す人がリスクなく挑戦できるエコシステムを作りたい。それが、巡り巡って日本の民主主義の質を高めることに繋がると信じています」
データの利活用が拓く、新しい民主主義の形
キャピトルシンクが目指すのは、単なる広告会社ではない。議員の政策立案や政策提言をサポートするシンクタンク機能も担う。
DX化によって更に意見が集まっていき、どの地域の、どの年代が、どんな政策に反応しているのか。それがリアルタイムで可視化されれば、政治家は「声の大きい少数派」だけでなく、「物言わぬ多数派」のニーズに基づいた政策立案が可能になる。今まで霞ヶ関が巨大なシンクタンクとして機能してきましたが、民間でないと作れない政策の可能性はまだまだ無限大だと思っています。
「デジタルサイネージは入り口にすぎません。私たちの本質は、政治領域における政策広報のプラットフォームです。これまで政治家を志す優秀な方々が矛盾だらけのルールの中で非効率な政治活動を続けることが美徳とされてきた政治活動を効率化し、国民とのコミュニケーションの手段を透明性を増やす。それが、私たちが掲げる『政治DX』の真のゴールです」
経営者に求められる「覚悟」の質
取材の終盤、松井氏はこう締めくくった。
「10年後、20年後に、まだ政治家が紙のポスターを一枚一枚手作業で貼っている世界があるでしょうか? 答えは『NO』です。誰かがいつか必ずこの領域をアップデートするんです。ネット選挙解禁も民間主導で行われました。既存の仕組みを変えようとする人は覚悟が必要。刺されることもある。大変だからこそ、それをやるのは私たちでありたい」
松井氏の歩みは、既存のアナログな枠組みに代替案を提示し、自らルールを書き換えていくスタートアップの本来の姿を体現している。
ビジネスパーソンが得られる教訓は多い。「規制は壁ではなく、参入障壁という武器であること」「大手企業のリスク回避を逆手に取ること」、そして何より「時代の不可逆な流れ(デジタル化)を信じ抜くこと」だ。
「政治DX」という、日本で最も難攻不落な市場に挑むキャピトルシンク。彼女たちがこじ開けた風穴は、やがてこの国の民主主義そのものをアップデートする大風へと変わるかもしれない。
松井亜里香氏は、国会議員秘書としての実務経験を持ち、政治現場のペインポイントを身をもって体験している「専門性(Expertise)」の高い経営者である。また、自ら協会を設立し、省庁と連携してルールメイキングを行う姿勢は、単なる一企業の利益を超えた「権威性(Authoritativeness)」と「信頼性(Trustworthiness)」を感じさせる。レガシー領域に挑む全てのビジネスリーダーにとって、彼女の戦略は一つのバイブルとなるだろう。
(文=BUSINESS JOURNAL編集部)