●この記事のポイント
3月のJR東日本運賃改定で、通勤手当が増額されると社会保険料の算定基準「標準報酬月額」が上昇し、手取りが減少するケースがある。パート層では「130万円の壁」超えによる就業調整も懸念され、企業は法定福利費増と人手不足という二重の課題に直面する。
JR東日本は3月14日、都心部を中心とした運賃改定を実施した。バリアフリー設備の整備加速とインフラ維持費の確保を主な目的として掲げており、山手線内や電車特定区間を中心に、利用者の実質負担は15〜20%程度増加する。一見すると「公共料金の小幅な調整」に見えるこの改定だが、通勤手当・社会保険料・労働供給という三つの経路を通じて、企業経営と雇用市場にまで影響が及ぶ構造がある。本稿では、そのメカニズムを順に整理する。
●目次
定期代換算で半年1〜2万円規模の負担増も
1回あたりの運賃加算額は数十円単位だが、6カ月定期に換算すると都内の平均的な通勤利用者で1〜2万円程度の負担増となるケースがある。食費や娯楽費と異なり、通勤費は職場・居住地を変えない限り削減が困難な固定費であるため、家計における影響は相対的に大きい。
実際、近距離区間の利用者を中心に、1〜2駅の移動を自転車や徒歩に切り替えるといった行動変容も観測されつつある。沿線の商業施設や小売業にとっては、乗降客数の変動が売上に連動するリスクとして留意が必要な動きといえる。
●見落とされがちな論点:通勤手当の増額が標準報酬月額を引き上げる
企業の人事・労務担当者が注意すべき論点として、通勤手当と社会保険料の関係がある。
所得税法上、通勤手当は月額15万円までを限度として非課税だ。一方、健康保険・厚生年金保険料の算定基準となる「標準報酬月額」は、基本給・諸手当に加えて通勤手当を含む報酬の総額をもとに決定される。つまり、運賃改定に伴い通勤手当が増額されると、課税所得には影響しないにもかかわらず、社会保険料の算定基準が引き上げられる可能性がある。
【標準報酬月額「等級繰り上がり」のシミュレーション】
現在の報酬水準が標準報酬月額の等級境界付近にある従業員の場合、月3,000円の通勤手当増額によって1等級繰り上がるケースがある。その場合、本人負担の社会保険料(健康保険+厚生年金)は月額で数千円単位の増加となり、手取り額が改定前を下回る結果になり得る。
人事労務コンサルタントで社会保険労務士の松田美里氏は、この点について次のように解説する。
「標準報酬月額の等級幅は比較的細かく設定されており、わずかな手当の変動が等級の変更につながるケースは実務上少なくありません。給与システムが自動で処理するため目立ちにくいのですが、運賃改定のタイミングで従業員の手取りが想定外に変動していないか、人事・労務担当者が確認する機会を設けることが望ましいでしょう」
加えて、社会保険料は労使折半が原則であるため、企業側も従業員と同額の追加負担を負う。従業員数が数百人規模の企業であれば、運賃改定に連動した法定福利費の増加は年間数百万円規模に達する試算も成り立ち、人件費管理の観点から無視できないコスト変動となる。
パート・アルバイト層への影響——「年収の壁」との交差点
通勤コストの上昇は、扶養の範囲内で就労するパート・アルバイト層にも固有の課題をもたらす。
「106万円の壁」「130万円の壁」として知られる社会保険の適用判定において、通勤手当が収入に含まれるか否かは制度や雇用形態によって異なるが、含まれるケースでは、運賃改定によって「交通費込みの年収」が規定の閾値を超える場合がある。この場合、労働者は社会保険料の新たな負担を回避するために、労働時間やシフトを調整することがある。これがいわゆる「就業調整(働き控え)」だ。
松田氏はこの点についても言及する。
「4月以降、定期券の更新タイミングに合わせて、扶養内で働くスタッフから『シフトを減らしたい』という申し出が増える可能性があります。企業側としては、交通費の支給方法(実費精算か定期代支給か)も含めて、スタッフが就業継続できる設計になっているかを改めて確認することが実務上の対応として有効です」
企業の立場からは、交通費を手厚く支給しようとするほど就業調整が誘発されるという構造的なジレンマがある。人手不足が続く業種・職種においては、この影響が現場の稼働に直結する問題として顕在化する可能性がある。
経済ジャーナリストの岩井裕介氏は、より広い視点からこのように整理する。
「交通費の上昇が就業調整を促すメカニズムは以前から指摘されていましたが、今回の改定はその影響を可視化する一つの契機になり得ます。政府が『年収の壁』対策を継続的に議論している一方で、制度外のコスト変動が就業行動に影響を与えるという点は、政策効果を評価するうえでも考慮が必要なファクターです」
企業側の対応策——オフピーク定期の活用と勤務制度の見直し
JR東日本はオフピーク定期券(通常の定期より約15%割引)の対象エリア拡大を提示している。これを活用できれば実質的な通勤コストの上昇幅を一定程度抑えられるが、導入には始業時間の変更や就業規則の改定が必要であり、企業規模や業務特性によって対応可否は分かれる。
また、コロナ禍以降に「出社回帰」へ方針を戻した企業の中にも、今回の改定を機にリモートワーク比率を再調整する動きが一部で見られる。通勤の頻度自体を下げることが、通勤手当・社会保険料の双方に対して最も直接的なコスト抑制策になるためだ。
今回の運賃改定は、通勤費の増加が①社会保険料(企業・従業員双方)の増加、②パート層の就業調整、③現場の人手不足——という連鎖を通じて企業経営に及ぶ構造を改めて示した。
企業の人事・財務部門にとって、通勤手当はこれまで「支出額の管理」に留まりがちな項目だった。しかし、法定福利費・採用コスト・欠員リスクまでを含む「トータル・レイバーコスト(総労働コスト)」として捉え直す視点が、今後の人件費設計においてより重要になるといえるだろう。
(文=BUSINESS JOURNAL編集部、協力=松田美里/人事労務コンサルタント、社会保険労務士)