今年のNHK大河ドラマは『鎌倉殿の13人』である。
鎌倉幕府の二代執権とされる北条義時を主人公に武家政権の形成過程を描く作品であり、大河ドラマとしては61作目となる。原作はなく、脚本は同じくNHK大河ドラマの『新選組!』『真田丸』を手がけた三谷幸喜が務める。それだけに、時代考証を踏まえつつもわかりやすい、独特のコメディタッチも残した作品となるのではないかと期待するところである。
さて、初期の鎌倉幕府が大河ドラマで描かれる場合、『源義経』『新・平家物語』『炎立つ』『義経』など、治承・寿永の乱、いわゆる「源平合戦」にフォーカスしたものが多い。そのためか、平家滅亡後の武家政権成立過程については、北条政子を主人公とした『草燃える』はあるものの、ほとんど取り上げられることがなかったと言ってよい。
その中で本作は、治承・寿永の乱から13人の合議制を経て承久の乱までを取り上げようとしている。また、主人公にその渦中にあった北条義時を据えることで、真正面からこの時代を描こうとする意欲的な作品であるように見える。
ただ、当該期については不案内という方も少なくないだろう。そこで今回は、『鎌倉殿の13人』で描かれる時代を「治承・寿永の乱」「13人の合議制」「承久の乱」の3期に分け、それぞれの時期の概要を述べながら、見どころについてお伝えしていきたい。
1.治承・寿永の乱
治承・寿永の乱とは、治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)までに争われた内乱を指す。いわゆる「源平合戦」と呼ばれるもので、後白河法皇の子である以仁王が平家を打倒するべく挙兵したことに端を発する。これはほどなく鎮圧されてしまうが、平家追討を命じる令旨が伊豆に配流されていた頼朝の下にも届いたことにより、関東にも波及する。頼朝は挙兵し、その舅である北条時政は一門を挙げてこれに加わった。もちろん、その中には北条義時の姿もあったという流れである。
この時期の見どころとしては、頼朝に挙兵を決断させるまでの様子、また挙兵後の石橋山の戦いで大庭景親に敗北するところであろう。海路、安房へと落ち延びる頼朝をはじめ、それぞれが落ち延びるのだが、今までは頼朝視点で描かれることが多かったこのあたりのまでの流れが、義時視点で再構成されるであろうことは興味深い。
たとえば、この石橋山での敗戦から落ち延びる中で兄・宗時が討たれたことなども描かれよう。安房から北上しつつ、各地の武士団を糾合して勢力を増した頼朝勢は鎌倉へと入る。また、討伐に来た平家方を富士川の戦いで破り、関東の地盤を固めていく。
また、後白河法皇の求めにより木曽義仲を打倒、そして平家を滅亡へと追い込むことに成功する。その過程で受けた「寿永二年十月宣旨」によって、関東の支配権を朝廷より公認されることになる。
また、文治元年(1185年)には「文治の勅許」により全国に守護・地頭の設置が認められたとされるが、否定的な研究も多く、このあたりがどのように扱われるのかについても気になるところだ。同時に、頼朝の弟たちである源範頼や源義経の粛清など東国政権の成立へと向かう中で、すでに政治的な暗闘は始まっていて、この中で義時がどのように動くのかについても押さえておきたい。
2.13人の合議制
建久3年(1192年)、源頼朝は征夷大将軍に補任された。令外の官の一つにすぎなかったこの官職は以後、武家の棟梁にして軍事警察権の総攬者としての意味合いを帯びていくことになる。しかし、同10年(1199年)、頼朝は急死する。その死因については諸説あるが、この偉大なる創業者にしてカリスマであった人物に代わり「鎌倉殿」となったのは、長男の頼家であった。
しかし、その3カ月後には訴訟を一人で裁断することを禁じられ、13人の合議によって、これを行うことになる。「鎌倉殿」たる源頼朝の死によって、いよいよ「鎌倉殿の13人」の物語が開帳するのである。
ただ、この御家人らによる集団指導体制は、鎌倉内部での激しい政争を招来した。鎌倉殿の外戚である北条氏からは、他の御家人とは違い時政と義時の2人が加わっているが、この父子は一枚岩というわけではなく、鎌倉殿を都合よく挿げ替えていこうとする時政の強引な政治手法に対し、北条政子・義時が反発、失脚に追い込むという事件が発生している。
この他にも、合議メンバーに名を連ねる梶原景時・比企能員・和田義盛などが失脚に追い込まれたり、また一族滅亡の憂き目に遭っており、混乱を極めた。その中を生き延びて最後に残ったのが義時に他ならない。
また「13人の合議制」のメンバーではないが、政争の犠牲になった者に畠山重忠がある。武勇と共にその清廉さから「坂東武者の鑑」とされる人物で、北条義時の友であったと『吾妻鏡』に記され、その死に際して義時は涙を流して惜しみ、冤罪だったと父・時政を批判したとある。ただ、このあたりについては、同史料による曲筆であるとの説が戦前からある。この後、義時が父・時政を失脚に追い込む不孝をなす大義名分として書かれたのではないかというのである。
基礎資料となる『吾妻鏡』が北条氏によって編まれたものであり、また史料の少なさから、今もなお定説を見ない事柄が多い。同時に、物語としてのプロットやキャラクター造形の問題もあるので、さじ加減が難しいところと言えるだろう。それだけに、自らが奉じる説と異なると眉を吊り上げるのではなく、歴史創作としてどのように料理してくるのか、こういう解釈をするのかと、むしろ楽しむ感じで臨む方が良さそうだ。
3.承久の乱
政争の濁流を泳ぎきった義時に待っていた最後の戦いこそ、「承久の乱」に他ならない。承久3年(1221年)、後鳥羽上皇は兵を挙げたのである。これが倒幕を目的としたものか、義時の討伐に限定したものかについては意見の分かれるところであるようだが、実質的には京方と鎌倉方の全面的な武力抗争となった。鎌倉方が勝利によって「武家政権」の礎が築かれ、明治までの数百年にわたり、武士たちが日本の政治のアクターであり続けるという時代が続くに至る。義時は乱発生の3年後、それを見届けるようにしてこの世を去る。
この一連の流れは、新渡戸稲造『武士道』をして武士たちが「多大の名誉と特権との寵遇を受くる」に至る過程を示すものであり、それはまさに「大河ドラマ」の名に恥じぬモチーフとなるものであろう。また、「又た多大の責任あるを自覚し、乃ち各自の態度行為を律すべき基準法度を要とするに至れり」とも述べているが、これについては義時の子である泰時・重時によって、その端緒がなされていくのである。
昨年の『青天を衝け』が武家政権の終焉を描くならば、今年の『鎌倉殿の13人』は武家政権の開創を描く作品であると言える。また、翌年の『どうする家康』を加えると、3部作であるかのような錯覚さえ覚える。実際、徳川家康は『吾妻鏡』を愛読し、多く参考とするところであったという。その点でも、本作には期待するところ大である。また1年、楽しみたいと思う。
(文=井戸恵午/ライター)