スタッフの指示を無視してダウンタウンに暴言連発…まさに決死の連続だった雨上がり決死隊

 雨上がり決死隊が解散した。1989年のコンビ結成から32年。彼らをここまで大ブレイクに導き、そして終焉させたのは、宮迫博之の決死の覚悟だった。

 88年、宮迫と蛍原徹はNSC(吉本総合芸能学院)の7期生として出会う。当時は2人とも別の相方がいたが、のちに自然消滅。NSCを卒業後、アルバイトを一緒にしたのがコンビ結成のきっかけといわれている。89年のことである。

 初舞台のギャラは300円、源泉徴収が引かれて手取りはわずか270円だったという。当時、2人は貧しい時代の食生活と将来の夢を語っている。

宮迫 値段の書いてない焼肉屋に入れるように。

蛍原 お金のこと気にせんとな。

宮迫 やっぱりこの世界に入ったからには、そういうことしてみたいしな。でもまだまだですわ。今はまだ……吉野家の並ぐらいです。並がやっと食えるよ程度ですわ。卵はまだ…迷うな。(「JUNON」93年11月号)

最初から吉本の“はみ出し者”だった雨上がり

 91年、日本テレビ系の深夜番組『吉本印天然素材』のスタートに合わせて、雨上がりのほか、ナインティナイン、FUJIWARA、へびいちご、チュパチャップス、バッファロー吾郎といった、吉本興業の期待の若手芸人でコント&ダンスユニットが結成された。番組名と同じ吉本印天然素材、通称「天素」である。

 当時、岡村隆史は24時間、才気あふれる宮迫の隣にいたという。のちに岡村は「(宮迫から)何かを盗みたかったんです」と語っている。

「雨上がりの2人は天素の兄貴分として引っ張っていましたが、96年、アイドル的な売り方をめぐって宮迫が演出家と対立。雨上がりは喧嘩別れ同然で天素を脱退しました。そして、2人は大阪の担当番組をすべて降板し、東京進出という大博打に打って出ます。もちろん、マネージャーもいない。東京の吉本関係者からは『お前ら、何しに来たんや』『知らんぞ、お前らなんか』『勝手にせぇ!』と言われたといいます。いわば、彼らは最初から吉本の“はみ出し者”だったのです」(テレビ局関係者)

 そして、このとき、宮迫は一人で東京に行くと宣言していた。エッセイでは、それについてきてくれた相方に感謝の念を示している。

「それは東京に行く時に、俺は天素を辞めてひとりで行くつもりだったんだけど、『一緒に行く』って言うてくれたから。男らしいなと思って」(『雨上がり文庫』小学館)

お互いに自殺まで考えた不遇の時代

 コンビを組んで10年。覚悟の東京進出を果たしたものの、東京の番組からオファーはなかった。続けていたのは名古屋ローカルの仕事ぐらいだったという。そんな中、ナインティナイン、ロンドンブーツ1号2号、ココリコなど、後輩が次々と売れていった。

 それまで特にコンビの方向性について話し合ってこなかった2人は、ようやく真剣に向き合うことになる。宮迫は、のちに「あのとき、初めて相方の電話に連絡したんちゃうかな」と語っている。

「渋谷のルノアールで宮迫が『最近、どうや?』と聞くと、蛍原は『時間がありすぎて、ビルから飛び降りそうになったわ』と答えたそうです。宮迫も『そうか、俺も死のうと思ってた』。2人とも、それだけ追い込まれていたということです。仕事を選んでいたわけではないものの、『俺らのノリじゃない』と自然と避けていたところもあったそうです。しかし、これを機に『なんでもやろう』と、つまらないプライドを捨てようとしたといいます」(同)

『ガキ使』での大暴れが転機に

 そんな2人のターニングポイントは99年2月14日、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ系)の出演だった。宮迫は1年先輩の山崎邦正(現・月亭方正)の知己を得て松本人志と出会い、ある企画が立ち上がった。

 それが「雨上がりだよ!全員集合~!!」。さまざまなコーナーを2人が毒舌で進行するというものだが、本来、番組側が望んでいた構成は、その司会ぶりがグダグダすぎて最後は邦正からキレられるというオチだった。

 実際、2人はスタッフから事前に「スベってくれ」と言われていたという。しかし、宮迫は台本を無視し、あえて笑いを取りにいくと決め、そのことは蛍原にしか言わなかった。

 そして本番。宮迫はいきなり邦正にキックを食らわし、松本にも「たるんどんねん。おいハゲ! お前なんでハゲやねん! なんでハゲとんねん! お前な、テレビ出るときぐらいヒゲぐらい剃れ!」と坊主頭をわしづかみにした。さらに、浜田雅功には「おいチビ! 覚えてるかな? 十何年前や! なんばグランド花月の前で、俺のこと車でひきかけたやろ! 俺、普通に道歩いてたら、こいつ車で横からキュー出てきて、挙げ句の果てに、ウィーン……『お前殺すぞ!』」

 この暴挙にダウンタウンとスタッフは大爆笑。この後も、スベるどころか爆笑に次ぐ爆笑の仕切りを見せた。

 2人は2015年12月放送の『八方・陣内・方正の黄金列伝!』(読売テレビ)で、こう語っている。

「一か八かやってん。一世一代やった。スタッフの指示を無視する。ダウンタウンさんにもムチャをする」(宮迫)

「もしかしてダウンタウンさんにキレられたらもう終わりや」(蛍原)

 東京進出に続く、2度目の大博打だった。この回の『ガキ使』は世帯視聴率20%を超え、翌週、雨上がりには仕事が5本入ってきたという。まさに決死の覚悟だった。

蛍原の「おかっぱ頭」が生まれたワケ

 当時の雨上がりは宮迫のギラギラ感が目立ち、蛍原はいってしまえば、その隣にいるだけだった。さらに、ドロップキックが定番の、どちらかというと攻撃的なコンビだった。

 しかし、00年に変化が起きる。演出家・野田秀樹のミュージカル『カノン』に雨上がりが出演した際、野田から蛍原に「おかっぱにしてほしい」とオーダーがあり、蛍原は舞台終演後もおかっぱ頭を続けた。これは、唐沢寿明ら共演者から「おかっぱのほうが良いよ」とほめられたかららしいのだが、実はその共演者に、蛍原のおかっぱをほめてほしいと言っていたのは、ほかならぬ宮迫だった。

 ここから蛍原のイメージが「癒やし系」に変わり、コンビとしてもかわいげがある感じにシフトする。宮迫も蛍原を「吉本のクリオネ」と命名し、蛍原のキャラを立てていった。

“○○芸人”ブームを起こした『アメトーーク!』

 そして04年、彼らの初冠番組がスタートする。それが『アメトーーク!』(テレビ朝日系)だ。きっかけは、現在も演出を手がける同局の加地倫三氏と飲み会で偶然出会ったことだったという。

加地「トーク番組をやりたいんだけど、どう?」って言いました。

宮迫 一緒にトイレ待ちしていたときに。「やりたいやりたい」って。

(「クイックジャパン」Vol.79)

 ♯53の「メガネ芸人」、♯131の「ひな壇芸人」がさらなる飛躍のきっかけとなった。月曜深夜24時からの30分だった放送時間は、06年から現在の木曜23時台に昇格し、枠も1時間に拡大する。

 同番組は「華の47年生まれ芸人」「五反田芸人」「ホテル・アイビス芸人」「徹子の部屋芸人vsガンダム芸人」「エヴァンゲリオン芸人」「家電芸人」「餃子の王将芸人」「熟女芸人」「中学の時イケてないグループに属していた芸人」と、神回を連発していく。今でも使われる「じゃない方芸人」は、この番組が発祥だろう。ちなみに、有吉弘行が宮迫につけたアダ名は「うすらハゲのくせにクソナルシスト男」だった。

 同番組への「ゲストが面白いだけなんじゃないの?」という意見に対して、加地氏は「雨上がりがMCじゃなければ、この番組は成立しなかった」(「AERA」10年2月15日号)と断言している。

 この後、雨上がりは『ワンナイR&R』(フジテレビ系)や『リンカーン』(TBS系)などのヒット番組に出演。さらに、宮迫は俳優としての地位も確立し、17年の“オフホワイト不倫騒動”も乗り切った。

最後の最後で裏目に出た宮迫の大博打

 天素からの脱退も、東京進出も、『ガキ使』での暴れっぷりも、宮迫の“一か八か”の賭けが功を奏したといえる。しかし、それがすべてうまくいくとは限らない。たとえば、19年の闇営業騒動後にロンドンブーツ1号2号・田村亮と会見をしたこと。吉本から契約を解除されて、YouTubeを始めたこと。いずれも宮迫は決死の覚悟だったが、裏目に出てしまった。

「これまで、蛍原はコンビの方向性について、宮迫の一声に付き従ってきました。そうしたコンビのバランスを考えると、宮迫が吉本との契約を解除されたときも、蛍原は“待つしかなかった”といえます。ちなみに、雑誌などでこれまでの彼らの発言を見ていくと、蛍原のすべてをきっちりしないと気が済まない性格が見て取れると同時に、宮迫がいかに蛍原の存在をありがたく感じているかもわかります。それだけに、解散は残念でなりません」(同)

 一方で、20年前の「アサヒ芸能」(徳間書店)01年2月8日号で、「もし雨上がり決死隊が解散するとしたら、どんなときか」という質問に、2人はこう答えている。

宮迫 とりあえず、雨上がり決死隊での結果を出さないとやめるわけにはいかない。

蛍原 もうやることがないと思えば、お互いの道を行けばいい。絶対、結果は出します。

 そう、雨上がりは結果を出した。だから終えたのだ。今後のそれぞれの活躍を期待したい。

(文=編集部)