東京オリンピック期間中のエキシビジョンマッチ、北海道日本ハムファイターズ対横浜DeNAベイスターズの試合前。日本ハムの主砲・中田翔が後輩投手に暴行をはたらき、無期限出場停止の処分を受けた。打点王を3回も獲得した「チームの顔」は、自らの愚行により前代未聞の罰を受けてしまった。
どんな要因から起きた一件か定かではないが、事の顛末を新聞記事で読んだ私は、元プロ野球選手に感想を聞いた。
千葉ロッテマリーンズの顔だった「昭和のヤンチャ選手」愛甲猛である。
拍子抜けするほどの礼儀正しい対応
中田のことを語る前に、愛甲がどのような人物であるかを書かせてほしい。
1980年夏。横浜高校の主将&3番投手として全国制覇を成し遂げ、ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に入団。投手として3年間がんばるも芽が出ず、打者に転向すると才能が開花、ロッテの顔となった。中日ドラゴンズ移籍後の99年には、星野仙一監督のもとで代打の切り札として優勝に貢献している。
現役を引退して3年が経った2003年。野球雑誌を手がけていた私は、愛甲に電話で取材を申し込んだ。
「ああ? 何が聞きたいの?」――こんなぶっきらぼうな返事を予想していた私は、拍子抜けした。恐る恐る電話で取材を申し込むと、「はい。わかりました。では明後日の午後2時、JR津田沼駅の改札でお待ちしています」。
ものすごく礼儀正しかった。
取材でも、現役時代の話はもちろん、野球界の常識や非常識など、私の質問に対して真摯に答えてくれた。取材が終わると、私は得も言えぬ感覚を味わった。愛甲猛とは「不器用だけどフレンドリーな人物。すごく優しい」と感じた。
自分の目で見てきた球界の“どぎつい”裏話
20年近く野球雑誌をつくってきた私は、有名無名を問わず100人以上の野球選手から話を聞いてきた。ほとんどの人とは、悪く言えば「その場限り」。仕事を通じての関係性であり、初対面で私に興味を持つ選手などいなかった。
しかし、愛甲は違った。「小川さんは、どんな本をつくってきたの?」――こんな問いかけをしてくれたのだ。
やがて、愛甲と親密になりプライベートでも遊ぶようになった。私が率いる草野球チームを指導してもらったり、神宮球場でナイター観戦をしたり、時には競艇でヤラれまくった。
並行して、どぎつい話をしてくれるようになった。そんな話ほど、耳がダンボになる。動画ならば確実に“ピー音”だが、それはさておき。
一つだけ感じたことがあった。愛甲が語る言葉はすべて自身が目にしてきた真実であり、加えて、人を評する口調が悪口に聞こえないのだ。現役時代に仕えた金田正一のおもしろさ、張本勲のすごみ、落合博満のプライベート。数々のトークに芸を感じる。リスペクトしている先輩選手を、おもしろおかしく話してくれるのだ。
かくして、私は愛甲猛の著書『球界の野良犬』(宝島社刊)を手がけることとなった。この本は、プロ書評家の吉田豪さんに絶賛してもらえた。
運命を変えた“恩人”落合博満の教え
「お前は打者に転向するべきだ」――入団3年目の1983年秋。愛甲は落合にこう諭され、打者転向を決意した。秋季キャンプで21歳の愛甲は連日バットを振り続け、夜は落合の部屋で丸めた新聞紙をボールに見立ててバットを振り続けた。横浜高校で甲子園を制したにもかかわらず、本格的な技術指導を受けたことがなかった愛甲は、落合の打撃理論を吸収しまくった。
門下生となって数カ月が経ったある夜。師匠の落合は打撃コーチを自室に呼び、愛甲のスイングを見てもらった。
打者・愛甲の誕生の瞬間だった。
その後も愛甲は、技術面はもちろん、精神的にも数多くのことを落合から学んだ。
「ある夜、練習を終えて酒を飲んでいたら、オチさんから『今は酒を絶て。野球人として成功してから飲め』と言われてね。14歳(笑)から飲んでた酒を、その夜限りでピシッとやめたんだ」(愛甲)
この日以降、愛甲は今も酒を口にしていないが、それはさておき、この話を聞いて、落合博満と中田翔、2人の「器の違い」を感じてしまった。
酒を絶って野球に没頭しろ、と愛甲に諭した落合。
気持ちを入れ替えるべく、距離を置こうとした後輩を殴った中田(新聞記事が正しければの前提)。
今季の中田は超絶々不調である。結果がすべてのプロ野球界において、チームの顔=4番打者が打率1割台。ただでさえイライラしていたからこそ、自分に従わない後輩と言い争いの末に、手が出てしまったのではないだろうか。
その場にいたわけでもなく、ましてや私は中田と会ったこともないが、おそらく中田は今、「コップの水がこぼれそうな状況」=器を大きくするべき状況にある気がする。
「中田ぐらいの存在になったら、かわいがっている後輩に対して『これからはお前が俺と同じ立場になり、若手の面倒を見ろ』ぐらい言わないと。いつまでもお山の大将でなんかいられないんだから」(同)
愛甲いわく、お山の大将でいられるプロ野球選手はほんの一握り。金田正一、張本勲、野村克也、星野仙一。それこそ、プロ野球界は「結果がすべて」の世界だ。
酒を絶った愛甲は夜遊びもやめて落合道場に没頭。打者転向2年目で初ホームランを放つと、3年目にはレギュラーをつかみとった。落合が中日に移籍するとロッテの3番打者を務め、88年から93年まで535試合連続フルイニング出場を果たした。
愛甲がプロ野球界で成功したのは、落合博満という大打者のおかげである。
「ふざけんじゃねぇ!」パイプ椅子を投げた過去
前置きが長くなったが、中田には「愛甲にとっての落合」のような人物がいないのだろう。愛甲は次のように語ってくれた。
「俺には、オチさんを筆頭に、渡辺元智監督(元横浜高校)や星野仙一さんなど、間違ったことをしたときに叱ってくれる年上の人物がいた。それこそ多くの人に殴られたし、時には理不尽な経験もしたけど、それも、人生に大いに役立った気がする。
俺は母親にこう言われたんだ。『タケシ、お前ね、プロ野球界では通用することも、引退後には通用しないよ。球界の常識って社会の非常識だよ。それをわきまえて行動しなければ、後輩はついてこないよ』とね。中田には、このように諭してくれる人がいないんじゃないかな」
現役時代、愛甲は調子に乗ったロッテの後輩に対して「ふざけんじゃねぇ!」とパイプ椅子をぶん投げたことがあったそうだ。私も一度だけ経験したが、愛甲を怒らせると「昔の不良ぶり」が表に出てくる。
ただし、愛甲は後輩にも、そして私にも、絶対に手を出さなかった。胸ぐらをつかまれた私は覚悟を決めて歯を食いしばったが、拳は飛んでこなかった。
「怒りにまかせて殴ったら、人間関係は壊れちゃうんだ」。一悶着が終わったとき、愛甲は私に真顔で語ってくれた(今思えば、愛甲を怒らせた私がすべて悪かった)。
中田にとっての“最大の不幸”とは?
昭和の時代に生まれ育ち、数多くのヤンチャを経験してきた愛甲も私も、昭和のニオイを感じさせる中田には親近感を持っている。だからこそ、あえて苦言を呈させていただきたい。
今の中田は、自分を変える転換期にさしかかっている。20代では通用したヤンチャも、30代では通用しない。新しい自分を切り拓く、そんな時期にあるはずだ。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」――この諺を肝に銘じてほしい。
「自分の行為がどれくらい後輩に悪影響を及ぼしたか。中田が真から理解するのは、彼の息子が後輩と同じような目に遭ったときじゃないかな。“俺にとってのオチさん”がいないことが、中田にとって最大の不幸だと思う」(同)
この言葉を聞いた私は、この原稿を書きたくなった。野球人として、そして人間として、一回り、器を大きくしてもらいたいからである。
「令和に生きる昭和の野球人」中田翔へ。拳とは、自分や自分の大事な人の命がかかったとき、あるいは愛する人間が間違った道に進もうとしているときに、初めて出すべきものなのである。
※文中敬称略
(文=小川隆行/フリーライター)