【巨人軍の闇・湯口事件1】高卒ドラ1のエース候補が急死…精神的変調と首脳陣の叱責

 プロ野球のペナントレースが始まった。コロナ禍による観客数の制限はあるものの、プロ野球ファンが最も胸躍るのは、やはりこの時期なのかもしれない。しかし、私はプロ野球開幕の頃になると、大輪の花を咲かせることなく、華やかな表舞台から消えていった選手たちの姿を思い出さずにいられない。

 その一人が、精神科病院のベッドで謎の死を遂げた湯口敏彦。1970年11月、岐阜短大付属高校(現・岐阜第一高校)からドラフト1位で読売巨人軍に入団した左の豪腕である。

若き豪腕が陥った「フォーム改造による悪循環」

 高校時代は、1度の完全試合を含む4度のノーヒットノーランを達成。1970年には春夏連続の甲子園出場を果たし、夏は準決勝まで勝ち進んだ。甲子園通算7試合で61奪三振、1.35の防御率。晩年期にあった巨人・金田正一に代わる将来のエース候補として、プロ入り早々から「金田2世」として期待された逸材だった。準エースナンバーの背番号「19」を与えられたことも、その期待を物語っていた。

 だが、「3、4年経ったら必ず一人前になってみせる」と喜び勇んで巨人入りした湯口本人に対して、彼の両親はと言えば、当初から不安を隠せずにいた。「ノンプロも勧めましたが」と、今は亡き父・昌範氏は生前、私に語っている。

「プロと名のつく世界はどこでも厳しい。巨人はその名門だっただけの話です。難しいとは思っていましたが、もう少しのんびりした球団でやっていれば、と思ったことはありました」

 当時の巨人はV9時代の真っ只中。湯口が入団した頃は、即戦力重視から将来性重視へとチーム方針を転換しており、湯口はその育成ターゲットの目玉に挙げられた。

 豪腕だが、ノーコン。奪三振か与四球かという強さと脆さを併せ持つ湯口に対して、2軍監督の中尾碩志と2軍投手コーチの木戸美摸が着手したのが、投球フォームの改造だった。

 湯口の本来のフォームは、胸の張りを利用するオーバーハンド・スルー。打者に威圧感を与えるダイナミックなものだったが、リリースの際に首を大きく反らせる分、視線がぶれてしまい、これが制球難を生んでいた。2人の2軍首脳陣は、それを首の動きの小さいスリークオーター気味のフォームに改造した。

 これが功を奏したかに見えた。プロ入り2年目の1972年4月31日、大洋ホエールズとの2軍戦で完投勝利を飾った湯口は、慣れないインタビューに朴訥として答えた。

「やっとフォームが自分のものになった気がします。この調子で速い球をどんどん投げ込めるようになったら自信もつくと思います」

 この時点で、湯口の成績は2勝0敗(5試合、イースタンリーグ)。計21イニングを投げて19与四死球と制球難の問題が解消されたわけではなかったが、ピンチをしのぐ投球術の会得も垣間見せていた。

 投壊現象が続き、頼りになるのは堀内恒夫ただ一人という状況の1軍では、川上哲治監督が「オールスターまでには使ってみたい」と湯口の1軍昇格を心待ちにしていた。

 だが、湯口のノーコンぶりが再び露呈するまでに時間はかからなかった。同年8月下旬の大洋戦で目を覆うような乱調を見せると、2軍首脳陣は再び投球フォームの改造に踏み切った。今度はノーワインドアップ投法だったが、フォーム改造の過程で衰えた球威は、さらに陰りを深くしていった。

 かつて巨人のエースとして209勝をマークした中尾2軍監督は、「川上の特務機関長」と揶揄されるほど川上監督に忠実だったという。選手寮に泊まり込むなどして、この大器をつきっきりで熱血指導した。テイクバックの取り方、足の上げ方、顔の向き、投げ終わった後の体勢……それらを数センチ単位で矯正しただけではない。精神力の強化を目的に、座禅を組むことも強要した。

 ただ、中尾2軍監督もすべてにおいて湯口を縛り上げたわけではない。ときには無礼講の酒を振る舞ったりもしたが、湯口にとってはそれもまた、一つのストレスだったのかもしれない。

「しょうがないから少しだけ飲んだよ」

 湯口は父親に打ち明けている。

「でも、どうもあの監督を好きになれなくて……」

 父・昌範氏によると、湯口の精神に変調のようなものを初めて感じたのは、同年夏のことだったという。久しぶりに電話口で聞く息子の声が、妙に塞ぎ込んでいた。

「君はフォアボールが多いと言われたんだ。それさえなければ、1軍で登板できるって。だから、サイド気味にフォームを変えたんだ。ノーワインドアップにもして少し楽に投げられるようになったけど、スピードが落ちちゃって……。昔のように速い球を投げられなくなっちゃったんだよ」

「それもプロの壁だぞ。そんなことでくじけちゃいかん。自分の力でその壁を突き破らんとな」

 父は、息子をこう励ますしかなかった。

快活さが消えた2年目――2軍戦での「最後の輝き」

◎川上監督のことば・会社の方針にしたがって基本を身に付ける。
◎ボールを置いて座ぜんをくむ!!精神の統一を身に付ける!!プラス野球の道!!
◎ファイト ワル口をいわず 心身ともにけんこう
◎巨人軍選手として、ライキャクを室に通さず 時間のゲンシュ 禁酒 レンタカー禁 ジョ中さん使うな 大声出すな ハダカ歩くな
◎カントク コーチのヒハン禁…云々

 湯口の死後、発見された彼の日記の一部である。当時の巨人がいかに厳しい管理体制を敷き、それが「金田2世」と期待された逸材に有形無形の圧力となってのしかかっていたことが、どことなく伝わる文面である。

 当時のもう一人の2軍投手コーチで、湯口の理解者の一人だった中村稔氏は、私にこう打ち明けている。

「選手にも息抜きが必要です。都城キャンプでは休日を利用してよく若手を海や山に遊びに連れていきましたが、不思議に思ったのは、宮崎の海岸に行ったときのことでした。打ち寄せる波を湯口が極端に怖がり、決して海に近づこうとしないんです。しかも、湯口はテレビに映る海の波にさえも恐れをなして、その場を逃げだそうとするしぐさを見せる。どうしたんだろう? と思いました」

 湯口の精神的変調の兆候を感じたのは、中村氏だけではない。合宿所の副寮長で2軍マネージャーも兼任した藤本健作氏も、こう語っている。

「1年目の湯口は朴訥だが、明るかったという印象があります。寮の食事じゃ足りないほどの大食漢で、よく仲間と焼き肉屋に繰り出していましたが、湯口との割り勘定の外食を敬遠する仲間もいたほどです。『お腹が一杯にならないと、力が入らないんです』と、湯口は照れながらよく言っていたものです。

 ところが、2年目に入ると、湯口から快活さが消えていった。外出は少なくなり、同僚ともあまり話さなくなりました。その湯口を中尾さんが夜遅くまで徹底指導していました。よみうりランド内の仏舎利塔で座禅を組む湯口を見たこともあります。

 湯口は真面目なタイプ。責任感も強いものがあった。それだけに、たまには解放してやった方がいいのに、とは思っていました」

 それでも、中尾2軍監督の熱血指導が実ったのか、湯口は2年目の後半に入ると、明らかな成長の跡を見せるようになる。フォークボールを完全にマスターし、カーブをストレートと同じフォームで投げられるようにもなった。

 10月2日の2軍のロッテオリオンズ戦では、3回からリリーフに立ち、最終回まで打者20人をノーヒットに抑える、目の覚めるような快投を演じた。四球はわずか2個。巨人の佐々木金之助代表も「湯口君、来年からは1軍だ」と、手放しで喜んだ。

 しかし、湯口が輝いたのは、これが最初で最後だった。

 11月22日、2軍首脳陣の公認のもとで寮生は無礼講の酒を飲んだ。寮生活の1年の締めくくりとしての慰労会で、湯口は同僚と朝方まで飲み続けた。

 翌23日、後楽園球場でファン感謝デーがあった。湯口は二日酔い状態で同僚とマイクロバスに乗り込み、球場に向かった。紅白戦は1軍選手主体で、湯口の登板予定はなかった。が、川上監督が「やはり若手主体でいこう」と予定を変えたため、白組の2番手として湯口がマウンドに送り出された。

 4万人の大観衆の目が「甲子園のヒーロー」に集中した。二日酔いの朦朧状態で魂の失せた湯口の投球を、紅組の打者が容赦なく弾き返した。滝安治が左翼に本塁打を放つと、黒江透修も左翼席に豪快な一発を叩き込んだ。あとは滅多打ちだった。

「そんなにいじめないで!」

 スタンドからも、悲鳴のような黄色い声が飛んだ。ベンチに戻ってくると、川上監督の決定的な叱責が待っていた。

「お前は2年間もムダメシを食っていたのか!」

※後編へ続く

(文=織田淳太郎/ノンフィクション作家)