『青天を衝け』は“地味”な渋沢栄一をどう描く?『花燃ゆ』『西郷どん』の二の舞になる不安

 今年のNHK大河ドラマは『青天を衝け』である。

「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一が主人公の作品で、原作はなく、脚本はNHK連続テレビ小説『あさが来た』の大森美香が手がけるオリジナルとのことだ。渋沢栄一については『渋沢栄一自叙伝』をはじめとする関連資料も多く、おそらくこのあたりを底本とするつもりなのであろう。

 新型コロナウイルス対策や東京オリンピックが開催された場合の放送枠確保の関係から、全話数については現時点では決まっていないらしいが、どうやら前半部分を使って幕末期を扱うらしく、正直に言えばかなり不安である。

 まず、渋沢栄一という人物が本格的に活躍するのは明治時代に入ってからであるし、実際、第一国立銀行の設立や500社にものぼる企業の設立に関わるといった代表的な業績は、すべて近代以降である。

 また、渋沢栄一は昭和6年(1931年)に91歳で死亡しており、幕末期は生涯の3分の1にすぎない。ここを半分かけて描くというのでは、実業家としての渋沢栄一についてはかなり省略したものにならざるを得ず、予備知識のない視聴者にとっては理解ができないまま進んでいき、結局は離れていく結果になるのではないだろうか。

 それに、合戦などに比べて、渋沢栄一の活動は絵的に地味と言わざるを得ない。社会に与えた利益という点においては、はるかに大きいものであるにせよ、テレビドラマとするには花がないのである。たとえば、旅順要塞を陥落させたとか、バルチック艦隊を打ち破ったというような派手派手しさやカタルシスがない。そのため、一般視聴者を退屈させないように何らかの工夫が求められるところであろう。

“ワナビー志士”だった渋沢栄一

 次に、渋沢栄一が「志士」としてはあまり活躍している人物ではないという点が挙げられる。彼は天保11年(1940年)生まれで、長州の久坂玄瑞と同い年である。ひとつ年上に高杉晋作、ひとつ年下は伊藤博文で、まさに幕末直撃世代であるのだが、いかんせんパッとしたエピソードに欠ける。

 郷里の深谷で同志と共に高崎城を襲撃、武器を奪って横浜の外国人居留地へと進撃し、異人を皆殺しにしようというテロ計画を立てた逸話が目立つところらしいが、これも結果的に実施されず、計画倒れに終わっている。この高崎城襲撃計画は『渋沢栄一自叙伝』で語られているため有名ではあるのだが、自叙伝の通例として、いくらか話が盛られていると思って読む必要があるだろう。

 江戸遊学で尊王攘夷思想にかぶれ、同地では活動家としての評価が低いので地元に帰り、江戸風を吹かせながら若者らと志士気取りで活動。その中で、何か大きなことをやりたいとか言って盛り上がっている間に、高崎城襲撃計画の話が出てきて、誰もやめようと言い出せないままに、引っ込みがつかなくなっていったというのが実情ではないだろうか。しかし、中止になって郷里にいづらくなり、「勘当」という形で今度は京都へ、という流れである。

 こういう、おそらく日本国中のいたるところにいたであろう“ワナビー志士”の空回りを、それこそ映画『SR サイタマノラッパー』のように描いていきながら、そんな彼が、どのようにして「日本資本主義の父」となっていったのかという形にするなら非常におもしろいし、見てみたい。

 しかし、大河ドラマともなれば、そういうわけにもいくまい。何か無理にでも先覚的な思想の発露として、自叙伝にもまして美化せねばならないし、それなら視聴者側としては、むしろ開き直って、どのようにそれがなされるのかを楽しむようにしたい。

 さらに、朝の連続テレビ小説の女性脚本家を起用した幕末ものという点そのものが心配である。実際、『花燃ゆ』や『西郷どん』はいずれも低評価・低視聴率という残念な結果に終わってしまった。イケメンを揃えてワチャワチャさせるだけでは、大河ドラマのファン層をつなぎ止めることはできないであろう。

 方向性としては、逆にどう骨太の作品にしていくのかがポイントになるが、徳川家康を出すというのは少し違う気がするし、それで「ならば見るか」となる戦国ファンはいないのではないだろうか。

『青天を衝け』期待の注目ポイントとは

 批判がましいことばかり並べ立てるのもよろしくないので、期待している部分についても述べておきたい。

 まず、幕末期の藍製造について細かく描かれていると良い。商品作物としての藍の栽培、また、初期の家内制工業としての藍玉製造は、明治以降にはインディゴ染料や化学的な染色法の導入によって、多くの地域で廃れていった「失われた文化」である。そのため、これを十分な考証の下にリアリティのある再現がなされるのであれば、一見の価値があるだろう。渋沢栄一の実家は農業も営んでいたが、実質的には藍を扱う商家であり、このあたりについては自叙伝でも述べている。

 また、渋沢栄一の父の渋沢市郎右衛門がどのように描写されるのかにも注目したい。彼は村で一、二を争う富家の当主として家業を拡大してきた人物であり、商売に勤しむ傍らで漢籍に通じるのみならず、俳諧も嗜み、神道無念流の剣術もこなすという、文武両道に秀でた教養人としての側面も持つ優れた人物である。

 一方で、渋沢栄一が志士気取りで活動を始めると「家業は継がなくてよいから自分の道を行け、自分は子をひとり亡くしたと思うことにする」と述べ、許したという。例の高崎城襲撃計画が中止になり、渋沢栄一が村を出るというと、路銀として密かに百両を渡してもおり、厳父であると同時に慈父でもあった。この人物が、単なる貧しい農民で時流の読めない卑屈で頑迷な旧世代の人物として描かれるのであれば、残念というしかない。

 そして、幕末期の水戸藩についてどれぐらい出てくるのかというのも注目すべきポイントである。「維新の魁」とされながら、幕末ものではあまり触れられることのない同藩であるが、渋沢栄一と親交のあった藤田小四郎や、その父・藤田東湖が出るのは確認できているし、そもそも主君となる徳川慶喜にしても水戸藩主・徳川斉昭の七男である。当事者ではないが近くにはいるという絶好の視点から水戸藩の幕末を描くというのは、非常に興味深いと思われるがどうか。

 いずれにせよ、蓋を開けてみないと何とも言えないところではあるが、『青天を衝け』が魅力的な作品となることを願ってやまない。

(文=井戸恵午/ライター)