これまで3回に渡って、個人的なパチスロとの出会いというか馴れ初めみたいな話をさせていただいたわけだが、今月はしばし趣きを変えてパチスロの歴史についてのお話をしたい。
パチスロが、海外のスロットマシンに日本流のアレンジを加えて誕生したことは、なんとなくだが皆さんもご存じのことと思う。では、いつどのような経緯でパチスロは産声を上げたのだろう。
パチスロの祖先であるスロットマシンが日本に上陸したのは、第二次世界大戦後のこと。進駐軍が駐留施設での娯楽用に持ち込んだとされている。
それがやがて民間に払い下げされたり、あるいは食料品などの物資ともに横流しされたりもしたのだろう。いつしか、街中の喫茶店やバー、そしてゲームコーナーのような場所に設置され、小銭を賭けて遊ぶようになったらしい。
とりわけスロットマシンが流行ったのが沖縄である。長きにわたる米軍の施政下、本土のような公営ギャンブルが無かったこともあって、貴重なオトナの娯楽として大衆に浸透していったようだ。
かような経緯もあって、現在も沖縄のホールでは本土と比べてパチスロの設置比率が高く、パチンコとほぼイーブン、ひと昔前まではパチスロが過半数を占めていた店も珍しくなかった。
そんな風に日本に上陸したスロットマシンだったが、やはり「現金を賭してプレイするのはイカン」ということで、「パチンコと同様に景品交換可能な遊技機として風営法の中で認めてもらおう」といった動きになった。
遊技機として認めてもらうためには、遊技の結果が「偶然」によるものではなく「遊技者の技量」でなくてはならない。つまりは「技術介入性」が必須なのである。
具体的に説明すると、だ。海外製のスロットマシンは、リールが自動的に停止して揃った絵柄によって配当がある。これは「偶然」によるものなので賭博とされた。では、これに「遊技者の技術介入性」を持たせるためには、どうすればいいか。
ここまで書くと、もうお分かりだろう。話は簡単だ。ストップボタンを取り付けて、遊技者が任意でリールを止めて絵柄を揃えられるようにすればいいのである。
昭和39年、かようにしてパチスロのルーツとなるストップボタンの付いたスロットマシンは誕生した。ちょうど東京オリンピック開催に日本中が沸き立っていたことから、このマシンは「オリンピアマシン」と命名された。
オリンピアマシンは、東京や大阪、名古屋、広島などにあったメーカー直営店に設置されたり、あるいはアレンジボールや雀球、スマートボールといった既存のメダル式遊技機などとともに設置され、新たなオトナの娯楽として人気を博した。
ちなみに、現在のパチスロのようなパチンコとの併設は、ごくごく一部の地方・地域を除いては認められなかった。
これは、当時の法律が遊技球を用いて遊技する遊技機つまりパチンコと、前出の遊技メダルを用いて遊技する遊技機とを、設置・営業する上でも棲み分けしなければならなかったからである。
以前、濱マモルとの酔いどれ談義「回胴酔虎伝」の中でもちょっと触れたが、ひと昔前のパチスロ店がパチンコ店の隣に別棟になって建っていたのも、その当時の名残なのだ。
ともかく、パチスロのルーツとして歴史の上では燦然と輝くオリンピアマシンだが、残念ながら遊技文化として定着・発展することなく、一過性のブームに終わってしまう。
なんせ、19世紀末に発明された当初の機構と仕様を流用し、そこにストップボタンを付けただけの単純なマシンである。ゲーム性も単調だったし、そもそも「ボタンで役を狙える」といっても、とてもじゃないが常人にできるものではなかったから、次第に飽きられてしまったのである。
日本に、本当の意味でのスロットマシン文化が花開くのには、まだ少しの時間を要した。次回は、近代パチスロの礎となった、ある1台のマシンについて綴るとしよう。
※撮影協力:スロテック(株)
(文=アニマルかつみ)